御影駅の謎

コラム

阪神御影駅のなぞは数知れず、大震災でも崩れなかった、住吉から御影の区間は戦前に高架になり、その前は旧国道を走っていたそうだ、なによりも重機のない時代、コンクリートをあの高さまで鉄骨組んで作るのはすごいことだったとおもう、最近、耐震補強が御影中学の下の高架であったそうだが、実はあれもやばかったそうだ。何よりも不思議なのが一番北にあった使われることのないホーム、
そして、円形の建物、その下にあった御影マーケット、この奥は暗い通路があって、飲み屋さんとかあった記憶があるのですが
そして、あの曲がったホーム、どう考えても危ないホーム。
昔は電車の馬力が弱く、等高線の上で起伏をなくした路線にするためにまがったという説。御影の酒蔵の旦那衆が、酒の質がおちるから、回り道しろといわれ、しかたなくホームをまげて路線を作った説。あまりにも、御影の町が繁栄していて用地買収ができなかったこと、本来なら、魚崎から43号線沿いに今あるイズミヤを通過し、南の路線に路線を引けば、短く曲がらずにすむ。
そして、思い出すのは、あの御影駅の狭い狭い長崎屋の前を神戸市バスが通過していたこと、しかも、タクシーもきていた。
そういえば、阪急御影駅も変な位置だった。そして、あのガードの低さ、バスが通過するたび当たりそうな感じだったような。阪急御影駅も周辺きれいになった。
国鉄御影駅もないのも、御影の酒造組合が反対して、線路も北のほうにするように要望を出したらしい、当時は蒸気の煙が酒造に悪影響すると迷信があった。
そういうわけで、住吉にできた、
大手筋商店街も元は、大手筋という御影中学の横の道に点在していた店を高架下にあつめたのがはじまりのようで、阪神電車としては火災の心配があるので、実は出て行ってほしいが、元はといえば、区画整理でそこに行かされた経緯と、住んでいるという権利みたいなものがあるようで、追い出しは困難。店は辞めてもあの二階や裏に住んでいるということ、今はすべておいだしにかかっています。
震災まではなんとか、市場もやっていたようですが、文化住宅がほとんど崩壊して、住む人が変わり、とどめは、イズミヤが世界長の跡にできたせいでしょう。
大規模店舗規正法が小泉政権時代に緩和された時期に重なります。
なんで、御影があんなに寂れているのは、
時代に合わない街づくりであったことなのかもしれません、
もちろん、モロゾフが工場が無くなり、酒造会社が無くなり、労働者であふれていた御影駅周辺でもあったようです。