長七のルーツ

コンセプト

世の中の流れは速く、グローバルな流れと、ITによる様々な革命、また国内では少子高齢者など問題が山積しております、私は、15年間、外食産業で働き、様々経験をさせていただき、以前から夢であった、「自分の店を持ちたい」「自分のブランドでやりたい」と熱望し、阪神淡路大震災を機に、会社を辞めました。それから、3年ほどFCの又貸しを経験し、直営とFCの違いのすさまじさに驚き。土地権利者や地元のお客さんなど、さまざまな援助や協力があり、2003年べんとや長七食堂を開業し、今に至ります。長七 という名前は、先祖様が神戸御影の地で江戸時代中期より、昭和、敗戦の時まで、灘の生一本の銘酒である、菊正宗さまの専属の樽屋として、生業をしておりました。樽屋長七、略して樽長というのが屋号です。妻の提案もあり、その屋号を平成の時代に復興させ、私も長谷家本家の長男として、屋号を継いだ訳です。昭和の敗戦のとき、最後の長七である(祖父重雄)は、家工場すべて灰になり、軍票を大量購入さされ、西宮仁川の広大な土地を海軍などに安値で買収され、新円切り換えにも失敗し、国道43号線の建設に立ち退き換地をされて、さんざんな試練と失望の中、家族5人を残し、病に倒れました。最後の長七重雄は、つらい思いをしたとおもいます。ぼくはいまもいろいろな試練や挫折、失敗の連続ですが、この先祖の恩命を今の人たちにどれだけ「食」を通じて伝えられるか、それが使命であると心得ています。

この14年、成長したかと言えば、まったくだめです、まったく零細でほそぼそです。でも、しかし、なんとか、営業できているのは、お客様のおかげ、家族のおかげ、支援者のおかげさまです。この場を借りて御礼をもうしあげます。

             長谷 達夫 長七 拝  2017/11/02

コンセプト

長七という名前は、先祖の屋号であります。江戸時代半ばより、いまの東灘区御影石町に住み

酒樽を作る家業を第二次世界大戦がおわる、昭和20年ごろまで、150年か200年はお先祖さまは代々やってこられました。菊正宗さま、嘉納さまとのご縁があったのでしょうか、それ以前は油屋をやっていたようです。六甲山の山麓には水車小屋がたくさんあり、菜種油、ゴマ油など 石臼で水車の力で精製していたのだとおもいます。

もっと、昔はというと、四天王寺を聖徳太子さまがご建造されるとき、石屋として、時枝氏と長谷氏が派遣されたようです。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたということです。石屋という家業であったようです。少し前までは、石屋石材店は石屋川沿いにたくさなりました。住吉の山で採掘し、石屋川まで運んで、削っていたのではないかとおもいます。

なぜ、石屋から油屋になったのか、まったくわかりません。戦後、御影には長谷というなまえがまだ30軒はあったようです。長谷家と時枝家には伝説があり、両家は必ず仲良くすること、そうすればすべてうまくいく。この話を、友人からも聞いたので驚いた記憶があります。

冒頭の古写真ですが 恐らく、昭和元年のころだと思われます。左横に蓄音機が見えます。1926年ですから、ほぼ100年前です。左から 最後の長七 重雄 林蔵 武
前 僕の祖祖父 重太郎 妻 たね 次男 信雄(元菊正宗取締役) とよ

曽祖母たねさまは昭和41年まで91歳で亡くなりました。実家は 島田家、いまは創業一族はおられませんが、シマブンという会社、その前身の網やから嫁いでこられました。阪神大空襲では、家も工場も全て消失。重太郎さんも既にもう亡くなっていました。祖父の重雄は、戦争の赤紙がこず。地元の青年団で行動していましたが,軍需工場で大けがをし、それにともないがんにもなり、戦後すぐバラックを焼け跡にたてて、すぐになくなりました。

大変なのは、働き手が亡くなった、長谷家、長男は10歳、僕の父です。長女次女次男三男三女と祖母は、大変な苦労をそこからしてゆくのです。

 

 


国道43号線建設のため、立ち退き

コンセプト

昭和30年ごろから 国道43号線の建設が始まります。写真は石屋川のさかを歩道橋から撮影したおのです。1967年ごろです。まだ空が見えました、阪神高速道路はありません、真ん中n分離帯には薔薇が植えられてました、信号すらもありません。この国道建設により、御影ほんどうりというわれる西国街道浜街道がほぼなくなり、御影の寸断がおきました。車の排気ガス、交通事故など多発。うちのいえはこの国道の端から端まで家があったそうで、相当な土地の置換場所の提供をうけました。しかし、根本的な収入のない長七の家は困り果てるのです。建築費を捻出できないのです。このへんの事情は誰も伝えません、だれが出して補助したのか、土地を半分売り、所有の不動産を売り、なんとか道谷建築事務所に依頼し、完成したのです・。しかしながら、ここでまた問題がおきます、長年の苦労と祖母と祖祖母との折り合いが悪かったのか、祖母は、新しい家で自決してしまいます。

この話は、僕と姉には長い間伏せていました。最後まで父はそのことはいわなかった。よほどつらかったのだと思います、10歳のころ、戦争終わって父を亡くし、母も其の10年後亡くし、自分は長男だから下には弟、妹がたくさんいて、父は其の後、70歳くらいでパニック障害にもなり、難病にもかかり病の果てに亡くなりました。最後まで、「心配なのはおまえや、」「店大丈夫か?」と、いいつづけていました。こどものころから実家で寝て居ると、廊下や天井がきしむおとがよくしました。でも、恐くはなかった。あるとき、姉がひとりで家にいる時、12歳くらいか、どろぼうが家にきました。しかし、どろぼうは家に誰かいるのではないか、玄関の電話をがちゃがちゃいわせて、気配を感じたのか、隣の家に泥棒に入りました、今考えると、亡くなった祖母が守ってくれたんだとおもいます。姉は昔から霊感も強く、恐い霊などが来ると母親に言っていたことを思い出します。

話はまだ続きます・。2024/11/28 記録