40年ぶりに同窓会をし、
其の後、半年ほど、「花見」をしようということで、六甲山にいった。
田村先生は、おもむろに 紙を取り出した。
ぼくらは、6人くらいだった。もう、どこにいるのか、わからない人が多く、たまたま、フェイスブックなどで見つけた近隣の人を呼び寄せた
卒業式のあと、門の苗で 前から 大橋、鈴木、萩原 岩下、大島 田中 宮脇
山の中で、田村学級、国語の授業がはじまった。
あの有名な。詩だった。
雲 山村暮鳥
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか
この詩を書いた紙を配り、まず、読んでみろ、という。
11歳の無垢な小学生であったころ、先生に国語のいろんな授業を受けていたが、
完全に忘れていた、面をくらった。
まずは朗読、「おうい雲よ」
「そんな声で、空の上にいる雲にきこえるのか?届くのか?」
はっと、した、感性が感覚も鈍化し、なんにしろ、詩を読むということもせず、ただひたすら生きてるような人間は
わからないのである。
「どおういう情景がうかぶ?作者の気持ちはわかりますか?」
この短くて、さりげない文章の中に、何があるのか、何が表現されてるのか
そういわれると、目の前に その福島の山の青い空と悠々と流れゆく 雲の景色が、はっきりと浮かんだ。
そういえば、空を見上げると、雲はどこにいくのか、あの雲はどこからきてどこにいくのか、あの雲はどこでできたのか
よく、子供のころ思ったものだ。そうだ、そういう授業があったんだ。教科書の文字の中にあったんだ。
ぼくは、この40年間に、空を見て、どう思うか、雲を見てどう思うか、変化したのか
ただ、雨が降るか、暑いのかと、天気ばかりを気にしていただけの人生だったのか・・。
作者の暮鳥のことを先生は話し出した、結核で病の床にあり、空を見上げて自由な雲がうらやましかったのかも
田村先生の最後の国語の授業は終わった。ぼくは自分が情けなかった。
大人になること、年を取ること、感性が鈍ること、感動できないこと
そういうことを 思った。
田村先生、また、神戸に来てください、というと、喜んで来るヨ、と、いってくれた。
しかし、それから、コロナ騒ぎが起き、先生自身もぼけてきていけないかもしれない。と、
そして、2024年の正月明けに、娘さんからの一通のはがきが届いた。
先生は、亡くなった。昭和8年生まれだった。
田村先生に ぼくは 11歳から62歳まで51年間年賀状を出してきた、返事もくれた、
版画と手書きで愛情のあふれる年賀状だった。
いつまでも忘れることのできない、恩師。田村省三先生 ありがとうございました。