梶田幸恵先生には、ごめんなさい。と、今更ながら僕はいいたい。
5年2組の教室は、普通の教室ではない、物置のような部屋だった。クラスであべくんという生徒がいた。この子が、いまでいう、多動症のような子供で、授業に関係なく、話をしだしたり、動いたり、先生は何回も注意するのだが、また、話し出す。そこから、ざわざわと話し出す、
或る時、先生が、耳を抑えて「うるさい!!」 と、怒鳴った、もう完全に疲れ切ったように・・。
しかし、またあべくんのあたりからざわざわしだす。その繰り返しだった。
となりのクラスの福田先生が、みるにみかけて、注意しにきた。「うるさすぎないか!隣にまできこえてるぞ、いいかげんにしなさい」
そのあたりが、梶田先生は限界だったろうか・・。おそらく、今思えば、憶測だけどメニエル病かなにか、悪化して、気持ちも不安定になり、
学校に先生は来なくなった、ぼくたちは、この先どうなるのか、不安だった、かわるがわる、いろんな先生がきた。教頭先生がメインで授業を進めた。
心優しい、吉村君、網野君は、それぞれ、阪急岡本の先生の家まで、お見舞いに行ったと、言っていた、
梶田先生は、どうなったのか、おかんに聴いた。其の後、なんとか、六甲山小学校に転勤したと、
そして、その40数年後、田村先生の同窓会をうちの店でやった。先生は喜んで大坂から来てくれた。
そのとき、おそるおそる、
「梶田先生は、どうされてますか?」と、聴いた、
先生は
「えらいさんになってるのとちがうのかな」と、お答えになった。
僕は意味が分からず、自宅に帰り、ネットで調べた、驚くべきことに、国立奈良教育大学の教授となり、名誉教授になり、退官された。
そういえば、ネットをし始めたころ、
「この指とまれ」という、昔のクラスメイトを探すサイトがあり、そこで、梶田先生がコメントを入れていたのを思い出した。
「みんな、元気ですか?」
と、あった。ぼくは、なんか、返事ができなかった。ずっと、気になっていた、学級崩壊させた生徒の一人として、
梶田先生、ほんとうに、御影ではすいませんでした。
しかし、なんで、大学の教授にまで、なられたのだろうか、
先生は自分の半生を絵巻物に作っておられた。先生は芸術を通じておられた、教育に芸術をとりいれて成果をあげられたようだ。
読んでいくと、先生は1965年神戸大学を卒業され、神戸市の小学校の先生に採用され、しり池小学校に配属された。その学校で新人なので
苦労をしたらしい、そこでも学級崩壊してしまい、教育の難しさを思い知り、そのころ、斎藤喜博先生が御影で指導を始めたのを聴き、見学にいった、
子供たちがいきいきとしてるのをみて、是非とも、御影の小学校に行きたい、熱望され、御影の小学校に赴任することができた。
しかし、再び、ここでも同じようなことが起きてしまったのだろう、
きっと、梶田先生は悩んだのだと思う。もしかしたら、教師を夢見て、大学で勉強して、その夢は自分に不向きであったのか、
そのせいもあり、体調を壊したんだろう・・。
田村先生が、ふと、ぼくに言った、
「氷上校長先生が、うまいことして、次の学校に復帰できるようにしたんだよ、ほんとはあのまま、辞めたのかもしれない」
そう、つぶやいた。氷上校長が、励ましたのだろうか、あきらめるんじゃあない。
六甲山小学校、という名前を僕が聞いたとき、こどもときに、先生、こんどは元気にやってほしい。と、思った。
先生の絵巻ものによると、そこから、神戸大学付属小学校に転勤。ここは、かなり優秀なこどもたちがくるところであった。
https://www.nara-edu.ac.jp/ARCHIVE/08kajita/08kajita.htm
梶田先生の絵巻物はもう削除されてるようだ。
そこから、先生は仙台の大学に行かれて、奈良教育大学で教鞭をとられた。
ぼくはすごいことだと思った。リベンジというか、不屈の精神というか
教育者をやりとげ、最後は大学の先生になるとは・・・。
斎藤喜博先生の子供たちへの想い。ひとりひとりの子供の可能性を信じて、芸術の才能を見出す。ものをつくることによるコンストレーションのアップ、こどもの清い気持ちの表現。
これらを体現し、表現して、大学で作り上げたのだろう。
ひとの人生はわからないものだ。
梶田先生はもういくつになったろうか、先生はご存命だろうか
ほんとうに、偉大な人です。ありがとうございました。
斎藤喜博の伏流水は、奈良にも続き、どこかのひとに流れ継ぐ、
#梶田幸恵