田村省三先生

小学6年、最終学年になり、担任は田村先生だった。1973年昭和48年だ、田村学級の始まりだった

 

小学5年の時 たいへんだった。担任の梶田幸恵先生が体調を崩し、学校にこれなくなり、担任が居なくなった。その話は、別項で、とにかく、5年の時のクラスはひどいものだった、いまでいう、学級崩壊。うわさによると、僕らが悪いということで、5年6年は同じクラスであがるのに、クラス替えが行われたんだ。うすうす、感じていた。厳しそうな男の先生になるという、予感はあった。

田村先生には、びんたを数回された記憶がある。それに、廊下にたっておけ!バケツに水を入れて、そういう経験はなかなか、ないもの、そこまでぼくは悪童だったんだろう。何をしたのか、何をいったのか、記憶のかなただが、相当悪いことにしたのだろう。

バケツは重く、かっこわるく、隣のクラスの子供たちも見に来る。たぶん、一時間で終わると、思っていたんが、休憩時間もおわり、なんと、次の時間もバケツを持たされて廊下に立たされた。もう、泣きそうになったところで、先生が、教室にはいりなさい。うなだれて、椅子に座ると、先生はにこにこしながら

「おもたかったやろ」といった。みんなはくすりとわらった。

  1973年は、中東で戦争がまたおきて、たいへんなことになった、駅前の田中屋で朝から行列ができていた、

「トイレットペーパーは、ひとり、二個までです」店員は叫んでいた。

そう、オイルショックだ!石油の供給が止まるのではないかという恐れから、日本中が大混乱に陥り、街のネオンは消え、テレビの放送時間も短縮された。

僕は子供だから9時を過ぎると眠くなり 10時のヤンタンが始まるころには、布団にはいっていた。おかんや、おとんには、口が裂けても、廊下にバケツをもって立たされた、とは、いえない。

 そういう、年だった、

 

卒業式のことを僕は忘れない。先生はぼくらに手作りでアルバムを作らせた。すきなように、ひとりずつのオリジナルで、6年三組ひとりひとりに

サボテンの小さな花をくれた、

実をいうと、ぼくはこのサボテンをもらったことは、忘れていた。40年後の同窓会で、美由紀ちゃんから聴いた。

あ、そうだった。

あのさぼてんは、ぼくは、枯らしてしまった。毎日毎日、みずをやり、日に当てていたのだが、水のやり過ぎか、

一年もたたないうちに、枯れてしまった。悲しかった、でも、記憶は封印したのか

最後の6年三組の部屋で、田村先生は、みんなに、最後の言葉を話した。

みんな、聴いていた、

最後に、さようならをいったあとに、先生は泣いた、あのきびしくて、やさしくて、恐かった先生が

泣いた、泣いてるのを見られるのが嫌なのか

「早く、いきなさい」と、腕で顔を抑えて、右手をおいやるように振った、

ぼくには衝撃的だった。

もう60歳過ぎの爺さんの僕にはわかるんだ。田村先生の情熱の御影小学校は、ぼくらで、終わったんだ。

先生には走馬灯のように、御影小学校のことが頭によぎったんだろうとおもうのだ。

 

先生は、和田岬小学校に転任された、ほどなくして、違う小学校に転任。

40年後、ぼくは、先生と再会して、泣いた。逢いたかったのだ、

そして、愚問を投げかけた。

「田村先生は、なんで、校長先生にならなかったのか?」と、

先生は、その言葉を反芻し、返答に困っていた。

先生は、そこから、斎藤喜博先生のやっていた、先生への指導を自分の力でやり始めたのだ。数々の実験的な授業、

若い先生たちと、ともに、子供たちに教えるんだ。

梶田先生のように、若くて大学出たてのひとでも、教育実習を終えただけで、すぐに現場に出てクラスを持ち

指導するのは、本当はむずかしいんだろう。教科書を文科省と教育委員会をやればいいことなんだけど

それでは、なかなか、うまくいく人と行かない人が出てくるんだろう。

いまでこそ、コーチングという言葉がありますが、コーチングは相手の可能性を引き出し、目標達成を支援するコミュニケーション手法です。コーチが対象者と対話を通じて、その人が本来もっている能力や可能性を最大限に発揮できるよう、自ら考え、行動することを促します。

子供たちの未知なる可能性を引き出し、はきはきと、授業には集中でき、自主的に挨拶返事もでき、姿勢もよくなり、自信というものを持たせる。

いわば、能力開発のようなものが、喜博イズムにはあったんでしょう。若き日の田村先生は悩んだのだろう。氷上正校長の指導もあったのだろう。

情操教育 情操教育とは、人を思いやったり尊敬したりする心や人間力を育む教育です。教育基本法でも「豊かな情操と道徳心を培うこと」が教育の目標として定められています、これは10歳までの教育がかなめとなります。

今の学校の教育はどうか、批判するつもりもないし、知りません。

しかし、5年生あたりから、私学の受験技術を学び、ひたすら記憶と忍耐を駆使して、エリート目指す、結果、今の世の中の弊害が見えてきます。

田村先生は、校長という枠を超え、教育たるものは、なんであるかを、全国の学校を廻ったと、言われました。

斎藤喜博先生は、1981年、奇しくも、ぼくの今いる場所の近くの、夜間高校から、ヘルプコールがきて、

必死になって指導しました。そして、激務と過労であろうか、お亡くなりになりました。

そこは、今では全然違う学校になりましたが、当時はひどいところで、タクシーの運転手でもいくのが嫌だと、いうところです、

荒れに荒れてました。

1978年ころからか、全国の中学高校が荒れました。不良といわれる連中が、暴れ、いじめ、犯罪を犯すようになりました。

斎藤喜博先生は、やはり、小学校で情操教育が必要だ、と、そう思ったに違いないと思います。

偏差値教育のなせる悪弊です。

勉強できるやつが優れた人間であり、天才から大馬鹿に振り分ける教育が、あるいみ中学でした。

それは、違う、学校にいい悪いもない、何をそこで学ぶかだ。

 

 

続く、40年後の最後の国語の授業を山の中で行いました。 それは別項で