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長七の歴史、ご先祖

長七食堂の 長七の由来ですが、樽屋長七 という屋号です。

神戸大学社会系図書館に 「古文書」群があるらしく、2020年に公開されています。

驚いたことに、三か所も 長七 の名前を発見しました。神戸御影石町の「光明寺」さまの檀家であったことから、光明寺古文書というものがあり、神戸大学に寄贈されていたようです。光明寺さまは、阪神大空襲で、長七の家と同じく、すべて焼失しており、自分の先祖の過去帳なども存在せず、わからずじまいでした。 神戸大学図書館古文書のページ

光明寺文書  

光明寺さまは現在の神戸市東灘区御影石町(近世では石屋村にあたる)にある浄土真宗大谷派の寺院です。このお寺様と長七はおおらく戦国時代の創建のころからの関係があったのではないかと思います。慶長7年創建の碑を境内にみることができます。

慶長七年といえば 1602年、関が原の戦いも終わり、大阪城には豊臣秀頼がいて、徳川家康は戦いで焼け落ちた伏見城を再建し、三回目の再建をされ一国一城で不要になり、やがて廃城になりますが 余談として、有馬温泉の 旧瑞宝寺の山門は、1868年に京都の伏見桃山城から移築されたもので、1976年に神戸市によって保存修復されている。昔は、お城はリサイクルされていたのです。

 

翌年に征夷大将軍に任命され、徳川幕府が誕生したとしです。文禄5年に大地震が立て続けに起きたことで慶長に改元され、慶長年間ではその後も巨大地震が相次いで発生しています。震災が起きてお寺を再建したのかもしれません。阪神淡路大震災でも光明寺さまは全壊。歴史が繰り返しています・

神戸大学の古文書群は、阪神地区の江戸から明治にかけての歴史的な価値のある、いわば証人であります。実物を見たいものです。阪神大空襲以前に寄付されたからのこったのでしょうか・・。

光明寺関係文書は計44点で、宗旨人別送り状・願上(埋葬・本堂再建など)・雨乞・本願寺との書状が主である。そのなかでも宗旨人別送り状が最も多い。また、年代は江戸時代末期から明治初期にかけての史料が多い。光明寺は史料上では「摂州兎原郡石御影村惣道場光明寺」と記述されているが、「石御影村」は石屋御影村のことであり、石屋村を指す。(HPより)

 

その一

宗旨送手形之事(尼崎別所町中間屋藤吉同家かえが石屋村樽屋

七の許へ罷り越すにつき)】という古文書

文久二年戌六月(1862年) とあります。江戸時代はいわばお寺が区役所のような役割をしていたようです・。そもそも、家光の時代にキリシタンを弾圧追放するためとひとびとの往来を監視するためにでもあり、大坂や江戸の町中に人々が流入するのを防ぎ、それぞれの土地に根ずかせる必要もありました。

尼崎城下に住んでおられた 中間屋藤吉家から かえ という名前の娘がわざわざ御影石屋まで来るのです。嫁に来るのか、養女になるのか、働きにくるのか、それは、この内容だけでは判別できません。他の文書には嫁入りや養女というのがありますので、働きにきたのだと推測します。しかし、中間屋というのはなにをしているのでしょうか? 西国街道沿いにあるとはいえ、どういう経緯で来ることになったのか、きっと、あっせんする人がいたのでしょう。樽廻船の船頭や船主は、当時、船の修理や虫干し、などをおこなっていたのが、淀川河口周辺にあったと、「菜の花の沖」に記載がありました。

 

https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/049.htm

日本財団 図書館 さまより、お借りしております。

画像は 菱垣廻船です。基本的には似通っていますが、菱垣廻船と樽廻船では構造が少し異なるようです。

https://nihonsi-jiten.com/higakikaisen-tarukaisen-chigai/#google_vignette

日本史辞典さんのサイトより、お借りしてます。このサイトでは樽廻船と菱垣廻船の

違いを述べておられます。「菱垣廻船は1619年に船問屋が大坂から江戸に生活物資を運んだことによって始まり、

樽廻船は1730年に十組問屋から

酒問屋が脱退することで始まった)

話を戻します。

中間屋の中間とは、武家奉公人という意味です。武士の家の下働きをするというものです。しかし、この藤吉という名前がついているので、世襲で藩に仕え苗字帯刀が許されている者であります。ということは、家格としては、樽屋長七より上であるかもしれない、そこから奉公人がくるのかということです。かえさまが、もしかすると先祖のかたか、わかりません。罷り通る 罷り越す という言葉の意味はなんでしょうか、

1 「通る」「通用する」を強めていう語。わがもの顔で通る。堂々と通用する。「あんなことが—・るとは世も末だ」
2 「通る」の謙譲語。通り行く。
 「二階に居るか下座敷か—・るとつっと入る」〈浄・油地獄〉 デジタル大辞元より引用

古語であるがゆえ、ニュアンスは違うだろうから、単に、そこに行きます。という意味なんでしょうか?

文久のころは、幕末です。そして、石屋村は 天領でした。尼崎藩は、藩主 松平 忠興です。摂津国尼崎藩の第7代(最後)の藩主であります。

かえさんは 16歳頃でしょうか、徒歩で西国街道を尼崎から大阪湾の樽廻船を見ながら、どんな不安な気持ちで旅立ったのでしょう、まさか150年後に子孫がネットに記事を上げるとは思いもよらないでしょう、徳川の時代が終わるとは、思いもしなかったでしょう。

 

その二

【宗旨人別送り一札(東須磨村源左衛門妹たつが光明寺旦那の石屋村樽屋長七方へ行くにつき)】

その一とその二の違いは、手形 別送り の違い。手形が必用だったのは、尼崎藩を超えて天領にわたるので、手形が必用だった。「出女」が必ず持ってこなければならなかったものが、関所通行手形(女通行手形)です。しかし、この場合は 寺から寺。宗旨人とあります。宗旨(しゅうし)とは、「宗教の中心となっている教え」のことをいいます。 で分かれます。 宗旨とは、仏教やキリスト教、神道など、 「何を信仰しているか」 といった大きな意味で信仰している教義(教え)のことをいいます、このひとは、隠れキリシタンではありません。だから捕まえないでください。ということなんでしょうか、

東須磨村も幕府天領でした。時は遡り  安政五午年正月日 1858年です、先ほどの4年前です。ということは、かえさんとたつさんは、樽屋長七で、であってるのではないか、同時代なのか、それか、たつさんの交代でかえさんがきたのか・・。さすがに 二人も嫁入りにくるだろうか謎です。今回は 行く だけですね、行くだけですぐ帰ったのか・・。

この時代の先祖に関してはまったく資料がありません。明治五年生まれの、網屋島田家から たねさんが嫁に来ています。その実家はのちにシマブンという会社になっています。このかたでさえも存じ上げないかたでしょう。たねさんは、僕が小学一年のとき老衰で亡くなりました。

 

一番古いかたでわかっているのは 文政五年(1806年)4月16日生まれの 長七さまであります。奥さんの名前は つねさま この方は文政11年(1815年)2月18日生まれ このつねさまはどこから嫁に来たのかはわかりません。このかたがたが、長七の家に来たときは 50歳前後です、幕末の安政四年一月2日に兵太郎さんが生まれます。たつさんが きたときには、兵太郎さんは1歳少し、乳母のようなこともしていたんだとおもいます、兵太郎さんが成人になり、嫁を貰います。大石村の材木屋 川西五座衛門という家から かづさまという方が来られます。たねさまの先代です。兵太郎さんは激動の明治13年に先代の長七が亡くなり、家督を継ぎます。神戸大阪の鉄道が開通して5年後です。文明開化明治維新という時代です。きっと、石屋川のトンネルで陸蒸気を見に行ったんだとおもうのです。しかし、兵太郎さんは家督を継いで20年後明治33年1月9日に亡くなります。43歳の若さです。明治11年に重太郎さんが生まれます。この方が長七の家督を継ぎます。江戸時代から明治にかけては医療も薬もないですから平均寿命は40前後。

と、長七の話。つづく

なにしろ、歴史学者ではないので100%史実ではない可能があるので、ご意見ご感想は メールで osatani@osatani.com

2024年12月03日

樽屋は灘五郷には2000軒あった

灘の酒を江戸に下る「樽廻船」という話になり、
もともと江戸時代には秀吉が築いていた、流通ルートがあり、菱垣廻船という
千石舟が日本の各地を産物をのせて回遊していた。

菱垣廻船は、名前とおり 船体に、ひし形の垣根めぐらしているのです。

(1860年代の弁才船 出典:Wikipedia)

菱垣廻船には装飾として船の側面に檜の薄板や竹でできた菱垣格子が付けられており、樽廻船は菱垣廻船に比べて少し深さがあり船倉を広く取ってあるのが特徴です。しかし、ここで疑問です。なんで、ひし形をつけてるの?飾り?水しぶきを抑える?


 樽廻船というのは発想としては今のコンテナ船の今元であり、
いかにできたての酒をすばやく載せて、江戸の送るかということで
樽廻船が発明されていた。
 その樽を作っていたのが、うちの先祖で、その屋号が「長七」ということです。
樽というものは吉野杉で作られていて、釘などを一本もつかわず、
竹で絞めてできるのですが、その杉を買い付けに奈良の山奥までいったそうです。

 

そして、杉を乾燥させて、円形に整形する作業が、丸かんなという道具の発明に
よりできたのです、司馬先生によると、不確かであるが、灘のどこかで発明されて
桶にふたをし、頑丈にさせ、詮をし、上からわる、鏡わりや
下の詮からだし、陶器の徳利をかして、販売するという方法がとられた。

丸かんなというしろものが今どうなっているかしらないが
おそらく、三木や西脇あたりで作られてかんな職人がいたんだとおもう、

で、司馬さん話によると、
樽屋ふぜいが、江戸での灘酒の販売好況で売り上げをのばし
えらそうに、していた。ということを書いていた。どこの本か忘れた。街道をゆく だったか

そもそも、ぼくは、樽屋のことはまったく興味がなかったんですが、歴史小説の司馬遼太郎先生の大ファンで、全部読み漁ってました。時はシバブームでした。そんな中、21歳頃、高田屋嘉平の「菜の花の沖」という小説が出てきて、その中で灘の酒の話が出てきて

興味津々で読んでおりました。

話は変わって

昔は、ビンもなく、紙パックもなく、樽という輸送手段が重宝され
醤油もすべて、それでおこなわれていた。
江戸の昔の店で、酒と食べ物を安くうりさばき、大繁盛したという瓦版をみたことがある、
その秘密は、酒をたくさんうって、そのあいた樽を再び、売って利益をとる、という秘密があった
まさにSDGS持続可能な江戸時代。そして、その樽は竹を巻きなおせば何回も使えるという代物。

https://library.kwansei.ac.jp/archives/nadashu/seisan/10.html

上は 樽廻船の話。関学の先生の研究のサイト、樽廻船についての資料、内容が豊富。この大学の図書館には驚くべき歴史資料があつまっています。故柚木重三教授と故柚木学名誉教授が親子二代で収集されたものが2000点以上もあるのです・。あわせて研究もすごく歴史的な価値と分析は明晰なものです。

江戸時代が関が原の戦い、大坂夏の陣で、平和の世の中になるが、幕藩体制のなか、どの藩も米本位性であるがゆえ、平和の世の新田造りにあけくれるのです、結果的にどうなるかというと、米の相場が落ち、価格割れをし、どの藩も財政が苦しくなる。なんでも幕府の許可がおりないとできない。それで、コメ余りは酒造りを呼び起こしてゆくのです。もちろん、飢饉は何度も江戸時代におこり、火山の噴火も大地震も起きます。

話変わって、神戸市立御影小学校という斎藤喜博先生指導の氷上正校長時代に幼少をすごしました。その話はまた違う機会にぜひ、友人たちと話してると、「うちの家も樽屋やった」というのが三人もいました。二人は頭がよく、国立大学でした。そうか、このどっちかの先祖が樽を発明したに違いないと妄想してました。なにしろ、研究員で特許をとるような人だったからです・。しかし、なんで、吉野杉なのだ。杉の木は高い。松の木はだめなのか、近年、スギ花粉健康被害でスギは嫌われていますが、スギのかおりはとてもいいものです・。杉の葉油には「低沸点テルペン類」という頭をスッキリさせる効果のある成分が多く含まれますが、杉の材油には「高沸点テルペン類」という気分をリラックスさせる効果のある成分が多く含まれています。 この材油成分は「セスキテルペン」といい、吸い込むことで脈拍が下がり、睡眠時と同様の脳波になるという測定結果が出ています。スギの香りは木材と同様に抗菌や防虫の作用が期待できるのです。

吉野杉の歴史は古い。室町時代頃から始まったとされます。形状的いうと、節穴がすくない、穴があると漏れてしまいます。年輪の幅が短く、固いのです。わざと成長を遅らせて年輪の幅を小さくするように育てるのです。杉の役割には防腐作用もあるという驚くべきことです、なおかつ、化学作用です。海外でもワイン、ウイスキーなどには専用の樽があり、その化学作用が近年になって解明されています・。

杉の樽の化学作用。そして、樽廻船で20日間海で揺られる。「なんで、こんなにうまいのか?」と、江戸時代の江戸の人は思いました。

わざわざ、関東でできた酒を、船に乗せて、海の出て揺らしたほどです。富士見酒の由来はここにあるようです。「そうか、富士の山をみてるからうまくなったか」と、思ったんでしょうね・・。

2024/12/05 加筆訂正 ないしろ、素人ですので、信じないでください。ご意見などは メールで osatani@osatani.com

2024年12月03日

自分の興味のある分野について、忘備録のように記事をあげていきます。最初に上げるべきで分類すべきでした

私の好きな分野は

歴史  神戸市東灘区御影の歴史   幕末維新 など

音楽  昭和の時代の音楽 特にオフコースなど

国鉄 蒸気機関車も好きです。

旅  昔の北海道 YH

 

写真撮影  夕日 初日の出  落葉など

 

 

 

2024年12月04日

御影郷の酒蔵のページ


高校のとき、撮影した画像がありますので、公表いたします、ほとんどの酒蔵は1995年の大地震で全壊しております。

 

御影石町1丁目、坊垣さんの蔵だとか友人はいってましたが、名前はわかりません。御影郷の酒蔵は石屋川沿いにのこっており、43号線からくだったところにありました。この間の小さい路地は、狭く、夜はまっくらでした。すずしく、風もよくとおる、好きな道でした。下の画像ですがむこうにはモロゾフさんが見えます。あのあたりはチョコレートのにおいがよくしました。

波返しの蔵

波返しの蔵。というのはぼくがかってにつけましたが、このコンクリートは防波堤の役目でありました。時代的にコンクリートが日本に登場するのは

大正以降だとおもうのですが、この蔵の南側はもう砂浜であり、海がそこまできていました。台風や大潮の被害でたびたび蔵は崩壊しており、そのために大正か昭和初に設置したのではないかと思います。実をいうとこの蔵の写真は裏焼きでして、奥側は石屋川になっています。この蔵は阪神大震災で全壊し、そのあとから何重にもわたる、酒蔵の遺跡が出てきました。

御影郷古酒蔵群 第4次発掘調査報告書 として、神戸市が調査をされています。江戸期の窯場のあとがそっくり出てきて、貴重な発掘となりました。内容をご覧いただくには検索してみればいいでしょう。下の画像は 石屋川ぞいの小さな祠です。川向うの蔵なんと、震災ではつぶれませんで一番下の画像は戦後焼け野原の御影郷。しかしながら、その半分は残っています、精密爆撃B29などは、石屋川沿いに軍需工場があったので、それを目掛けて北方面に爆弾を落とし、蔵はほぼ被災しなかったのです。よって、戦後、震災が来るまでは残ったのです。不幸なことに、樽屋長七の場所が起点となったようで、空中からも白い地面が見えます。

 

これも波返しのあとがみえます。天神川あたりのくらです。下の画像は 陸橋から写したものです。むこうには、震災時爆発の恐れが起きた石油コンビナートです、

 

酒蔵の屋根は、

屋根瓦は丸瓦のしっかりしたものだった。なにしろ、温度管理が大事で、熱を防がないといけない、昔は冷蔵設備などなかったからだ。

南からさきほどの路地方向を撮影、阪神高速が見える。

2024年12月05日

神戸市立御影小学校の思い出

御影小学校の木造校舎は、戦後建てられ、1980年前後?鉄筋になった。

氷上正校長と教職員 1972年ごろ

私が御影小学校6年間、お世話になったときは、氷上正校長先生だった。いまでも、思い出します、朝礼の時、背筋をのばし、明瞭なご挨拶を

されていました。斎藤 喜博(さいとう きはく、1911年3月20日 - 1981年7月24日)は、日本の教育者。斎藤先生を読んだのも氷上正校長だったろうか

、恩師田村省三先生が、わざわざ、埼玉の島村立島小学校をおとずれ、御影小学校に教えに来てほしい、

そこから、教師たちの授業の取り組みも変わり、いい影響を他校の先生が受け、公開授業なるものを実施していった。

ぼくらはこどもだから、言われたとおりにしかしないが、とにかく、合唱の日々だったのを思い出す。

 

以下、そのうち書きます。

2024年12月09日