阪神大空襲で、樽屋長七は壊滅し、廃業しました。戦前までは、御影やそのあたりは武庫郡であり、戦後合併されたものです。
神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。
焼夷弾、またの名を「ナパーム弾」。長七の次男の家が六甲道にあり、焼夷弾が投下され、不発弾であり、屋根を突き抜け、床の間に突き刺さった状態で見つかった。神戸では昭和20年3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。
5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。
8月6日 もう終戦が近い日。広島に原爆が落ちた日。御影一帯も空襲を受けた。
1940年以前の写真、(下の写真)は、御影郷の密集ぶりを見てほしい。灘の酒が売れに売れて、灘に人が集まり、旅人は浜街道を通過せず、山街道をあるいた。丁度、御影中学から、御影幼稚園をとおるあたりである。御影中学の西門に黒松がそびえている、街道のなごりであろう
1767年(明和4)長崎奉行石谷清昌が長崎から江戸へ帰る途次、命じられて摂津・河内を巡見し、灘地方の酒造地帯の豊かな風景をみて、その公収を幕府に進言した。出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1769年2月尼崎藩領西宮・兵庫津の2町と灘地方村々、武庫郡2村、菟原〔うはら〕郡17村、八部〔やたべ〕郡3村、計22村(うち相給の村5村)が公収された。ほかに3藩・5旗本の所領13村(相給6村)も公収され、上知は合わせて2町32村に及んだ。尼崎藩は高1万4,000石余りを公収され、播磨(多可・宍粟〔しそう〕・赤穂3郡)に71村1万9,000石余りの替え地を与えられたが、豊かな地方の公収は財政的に大きな打撃となった。西宮商人の資力に頼って発行してきた尼崎藩札の整理、藩札制度の転換も余儀なくされた。譜代大名尼崎藩の弱体化が幕府に不利をもたらしたとして、植崎九八郎が上知令の撤回を求める上書を出したことも一理あることであった。
尼崎藩には、大打撃だった。石谷清昌という人物が、「あのあたりは、天領にすればいい」といった背景には、前の宝暦における地震、宝永地震宝暦の地震などあいついで幕府の出費が続いたせいもあったのかもしれない。
石谷 清昌は、江戸中期の旗本、幕府中枢のエリートコースをたどった。もとは勘定奉行も兼ねていたから、経済が強かったんだろう、
明和4年(1767年)12月26日に長崎より江戸に戻る際、摂津・河内両国の水害を受けた地域を巡検し、畿内の收納の事を沙汰をしたことで、褒美として時服3領を賜った。ウイキペディアより
もとはといえば、水害があったのか・・。御影の水害で被害があったのか、光明寺さんもこれで被害があったのか・・。
司馬遼太郎さんの小説のどこかで、石谷清昌さんが、たまたま、西国街道を御影あたりを通過していると、あまりにも繁盛してる様を見て、天領にしてしまえと、幕府に提案したとあった。
しかし、少し違うのではないだろうか、
12月末に水害の被害を見るのもかなり遅い話だ。おそらく台風だろう、河内一帯も被害がでたというから、大阪湾岸台風に違いない、
話を戻すと、下の写真のように、もうすごい蔵と、家々のやねがみえます。
灘の下り酒がもたらすものです、蔵元、酒樽をつくるうちの先祖長七、酒樽には竹を使います、竹屋も相当あったろう、杉をあつかいます材木屋、丸カンナなどを売る金物屋、米問屋、樽廻船の船頭、水主たち。御影の街がたくさんの人々でにぎあう光景が目に浮かびます。