乱文乱筆 誤字など、重複などありますが、お許しください、そのうち直します。
大学を卒業して40年近くなるな・・
4年でぼくが卒業するのは「奇跡」といわれた。
優の数は数少なく、就職部は「自分会社さがせ!」といわれ
卒業式の謝恩会で今井洋子教授の電話により、
「君の卒業判定会議はもめたんや、みんな反対してな・・
私が早く君のようなやつは社会に出すべきだといってね、
卒業できるんだよ!」といわれて驚いた、うれしかったが、
今考えるともう何年か留年して、当時のソ連のシベリア鉄道のたびをしたかった・・。
ぼくの卒業反対された教授はカトリックのイエズス会の偉い神父さんでもあった、因縁のあのレポートは
秀吉とイエズス会の問題からであった。400年前の長崎西坂の日本二十六聖人 慶長元年12月19日の殉教者の名前に気化された名前と同一を発見し、輪廻を感じた、そのときのレポートは秀吉を褒めた内容であって、0点であった。26聖人に気がついたのは最近であった。
この本の 恩師、茨木晃先生は、なんで、茨木という名前でスペインから帰化されたか、
みんな、まわりは知らなかった、
「茨木にすんでるからか?」とか、
実はそのペドロ茨木という少年の名前を戴いたらしい。全世界のカトリックの人々には聖人とされ
日本ではなかったことのような歴史、そして、ぼくは吉村先生の本を読み漁っていた。
吉村昭先生の「磔」の物語は衝撃的で、何回も読みました。
この史実はなんとなく知っていたのですが、
どうしても日本人は自分たちが行った悪事的な歴史には目をそむける、
まあ、金を払って本を買うのだから、いやな思いをするために読むひともすくないし、
日本人だけではないようですが、秀吉の天下統一以降の行動はひどいものがおおい、
しかしながら、弁護すると、秀吉がなぜ、このキリシタン26人をわざわざ
京都から長崎まで歩かせて、磔にしたのか、
イスパニアの領土的野心から、まず、宗教でココロをつかみ、
人々を奴隷として売り、国土を得ようとする、
その恐れがあった、そして、戦国時代の混沌とした時代に、
人々の生活は荒れ果て、宗教が救った部分もある、
対照的に、一向一揆があり、本願寺勢力もそうである。
思想そのものが絶対君主制というものでなく、神こそが主であるという考え
そこが秀吉たちには恐怖だったのだろう。
何度か、記事にしましたが、
ぼくが大学のころ、スペイン語とスペインの歴史の先生に
スペインから帰化されたカトリックのエルグランパドレがおられまして、
ぼくが日本の歴史のテーマでレポートかけ、といわれ、
秀吉がやったことを賛美し、日本の流通の基礎は秀吉おかげとか、
いろいろ書いたら、先生は、怒り心頭され、
レポートは零点になりました、
「あとで、私の部屋にきなさい、説明します」
と、いわれましたが、その迫力におののき、いくことはなかった。
先生はイエズス会の宣教師であった、イエズス会がいまだにあることも
おどろきだが、フランシスコザビエルに似ていると感じていた、
スペイン人の特徴だとおもうのですが・・。
26人は磔されて、殺されるのですが、
驚くべきことに、ゴルゴダの丘でイエスキリストが十字架に打ち付けられ
槍で刺されて死ぬのですが、その光景と同じことが
再現されてしまい、「殉教」という形になり、
日本よりも海外でこの話は有名で、彼らは聖人となり、信仰の対象となるのです。
この話はあまり知られてないし、他のヒトも小説にはしたがらない。
京都で、伴天連寺の歴史のモニュメントなどを、先生はその後、自費で立てられ
2001年に昇天された、
日本人のために京都大学医学部に自らの意思で検体もされた。
この26人のなかに、パウロ茨木(33歳)、ルトビコ茨木(12歳)という名前が
あり、親子ではないかと思ったのですが、生地が違うようです、
当時、高槻か茨木に高山右近のお城があり、熱心な信者で
自らマニラに追放されるのですが、そのあたりの地名からとったのか、
先生の名前の茨木だったので、その名前を使ったのか、
そのあたりのことはわからないですが、歴史というものはすごいことだと
思うのです、 以上は自分のFBからの転載。
また 自分のFB記事から以下を転載 (内容は重複しています)
イエズス会と秀吉の関係は、どこからこじれたのか、
大学時代の茨木晁先生の歴史の授業で日本の歴史のレポートを書いてくださいと、みんな提出したのだが・・。
評価はゼロでなおかつ、ノーカウントでした。
なぜなら、秀吉は偉大ではないと
ぼくは秀吉の偉大さをあげた。「太閤検地」「刀狩」「流通制度の確立」「銀座金座の設立」などなど・・。
しかし、当時の歴史ファンはいわゆる司馬遼太郎などの小説からきた妄想歴史好きであって、無知蒙昧なのです。
この記事のように、九州平定をした帰りの港で、秀吉は日本人の奴隷売渡の光景をみるのですが、買う人もいれば、売る人もいる。戦国時代にやりたくもない戦争にいかされたり、農地を荒らされたり、殺されたり、食うものにも困るひとびと、家族の犠牲になって、子供を売り、自分をうるひともいたんだろう。
日本人は器用で まじめでよく働くので、インドから東南アジアの国々で日本人の多くが奴隷で働いていたそうです。
しかし、秀吉はのちの6公4民という、農民から米を巻き上げます。大阪城を作り、名護屋城をつくり、聚楽第をつくり、伏見城は二回もつくり、朝鮮に戦争を仕掛け、
このダークなところは名君から暴君に代わったころの歴史は日本人は目をつぶり、しらん、太閤伝説を信じます。
家康もええ加減にせいよ、と、思います。
冒頭にあったように、ぼくは、茨木先生に0点をもらったことに当初はショックで、茨木先生を大嫌いになったのを覚えています。彼は、僕の名前を最後まで さおたにくんと よんでいたこともあります。
しかし、まあ、無知なぼくは40数歳のころに、吉村昭さんの小説で「磔」という本と出合います。
長崎二十六聖人の殉教の物語です、ぼくはまったく、その歴史を知りませんでした。
その中で、ルドビコ・茨木 という少年がいて、
「お前はまだこどもだから、見て見ぬふりをするから逃げろ」
と、言われますが、彼は天を指して
「ぼくはあそこにいきます」と答えます。
「あそこことはいずこや?」
「パラディソ」 paradis
この世は地獄で殉教することで、聖人になり、天国に神に仕える。と、いう思想でしょう。
キリスト教においては、「自殺」は禁じられていますが、「殉教」は 尊びられ、神のそばにいけるという教えがあります。ある意味、戦国時代に勃興した「一向宗」に似ています。戦国時代において、乱れに乱れた道徳管理、親殺して子供ころし、謀殺し、兄弟でもひどいことをし、そんななか、強い意識をもったのが、一向宗。彼らの強さ恐さに、信長も秀吉も家康も苦い経験と戦いと殺戮を経験しています。
全世界のキリスト教のひとびとが長崎のことをよう知っていますが、日本人はほんとしりません。
ぼろぼろの服で鎖を付けられ、垂れ流しで、かみもひげものびほうだい
ぼさぼさで、
まさに、ゴルゴダの あのお方の姿を彷彿したのでしょう。
そして、キリシタンの多い九州と長崎では、驚くべき光景がおこり、キリシタンの人々は、彼らの姿のを見て
祈りを捧げます。
最後に 磔で 十字架を背負い、殺されます。
秀吉は、イエスキリストを聖地で再現してしまったのです。
彼らは亡くなったあと、放置されましたが
柵を超えて、キリシタンたちが 服などを持ち帰ったといいます、まさに、「聖衣」であります、彼らはそれを崇め祈りをささげたのでしょう。
ぼくは思うに、九州の隠れキリシタンの原点は、ここにあるのだろうと思うようになりました。彼らは明治維新まで300年間、隠れキリシタンとして生活を続けます。家光のころから、その期間には徹底的に弾圧し、人々の移動を禁じ、寺にその管理を命じます。宗旨改めを必ずおこないます、これはある意味、住民票のようなものです。
大馬鹿の学生のころ、
「茨木先生は、日本に帰化して、なんで名前を茨木にしたのか?」
「さああ、茨木に住んでたのと違うの?」
その会話を忘れることができません。
それともうひとつ、0点をつけられたあとに、茨木先生から
「あとから、教授室に来てください、歴史の話をしましょう」
と、先生のへやにいくと、先生はコーヒーを入れてくれます。
何度か行きました。しかし、そのときは、なぜか、恐れてか
いかずに、学食でB定食を食ってました。まったく、勉強する気も再提出する気もなく、必然的に、スペイン語は大嫌いでした。
その吉村昭の「磔」の ルドピコ・茨木の名前を見て
「あ、そうだったんだ!ここから名前をとったんだ!」
と、気が付いたのです。
時すでに遅し、先生は、2000年まえにお亡くなりになり
京都大学医学部に献体をされてました。
たぶん、僕の先祖は、あの13人の長崎行の行列を西国街道の御影の地で見ていたと思います、きたならしい、おぞましい、とか かわいそうとか、思ったのでしょうか、
キリスト教ではリーカーネイションを信じていませんが
茨木先生は少年ルドピコの生まれ変わりだったのだと思います。
そして、300数年経過し、大学でぼくと遭遇したんだと思う、
まさに、邂逅だとおもいます。
単位を落としまくっていたぼくは、前期テスト前になんとか卒業したい一心で徹夜を続け・・。三畳一間の狭い部屋で机にむかったまま、寝てしまい、起きたら10時すぎに・・。
茨木先生の前期テストを受けそこないました。真っ青になったぼくはあわてて、教室にいくと、テストが終わって、みんな出てきてるころでした、
「すいません 寝坊しました」
先生は、
「次のテスト、大教室であるので最前列で受けなさい」
御赦しをいただき、助けてもらいました。
4年になり、そこでほとんどのひとは単位を取って学校にいかなくてもいいくらいの人が多い中、月曜日から土曜日まで満タンで授業を履修登録し、必死でがんばっていましたが、
そんなもの、急にできるわけではありません。
卒業テストもおわり、まあ、どうにでもなれ、と、内定ももらっていたし、楽観であったのですが、
卒業式の夜、予餞会で、今井先生から電話あり
「今日はほんま、行けなくてごめん、ほんまな、君は卒業できんかったんやで、その成績では無理。でもな、一年でも早く世の中人の為に卒業させるんやで、がんばりや、」
ぼくは、顔が真っ青になりながら、予餞会の司会をしていました。
「ありがとうございます、がんばります」
「茨木先生が、最後まで反対してたんや!」
しかし、最近思うに、もう数年留年していたら
すかいらーくに行くこともなかっただろうし、今の仕事もしてないかしれない。学費も100万もしない、半分以下の時代だったし・・。茨木先生は本当に 秀吉の歴史のこともあり
もうすこし、熱心に勉強してほしかったなんだろう・・。
留年のほうがよかったのかもしれないと
2010年ころか、みんなで、
京都の衣笠のカトリック墓地に行って墓参りにいった。
先生に感謝のことばを送った。
先生はイエズス会から戦後日本に派遣されたパドレだった。
イエズス会がいまも存在して活動してるのも驚いたが
歴史の裏表を茨木先生が身をもっておしえてくださった、と思う。
京都の町で、信長時代にあった、バテレン寺の遺跡などはほとんどない。徳川時代などをへて、ほとんど残っていない。
そういうことを憐れむ、ではなくて、歴史的な事象の視覚的効果保全のために、茨木先生は、京都市にかけあい、自費で 碑をたてたという。京都ではダイスウ町というあり、黒田如水や右近などが影響を受けた歴史的な場所。
再び、以下、自分のFBから記事転載 なぜ、秀吉はバテレンを追放したのかの 仮説。
文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件、
天正15年(1587年)に天台宗の元僧侶であった施薬院全宗の讒言を受けて豊臣秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、
南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。
バテレン追放令を命じた当の秀吉は、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。
1590年、ガスパール・コエリョと対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、
聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している。
秀吉は 朝鮮に攻める前に、フィリピンと台湾を侵略しようとしていた。
1591年、原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と降伏を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡した。1593年には原田喜右衛門がフィリピンの征服を秀吉に要請、同4月22日にはフィリピン総督が服従せねば征伐するとの国書を渡したが、スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼嘉隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等の情報を得ていた。
宣戦布告にも近い軍事的脅迫を含む敵対的な最後通牒によって、スペインと日本の外交関係は緊迫し、スペイン人の対日感情も悪化の一途を辿った。
1592年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求してきたが、
フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは
1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。
コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。
原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した
1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本がフィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べ ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。
原田 喜右衛門(はらだ きえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代の畿内出身の長崎商人。キリスト教に帰依し「パウロ」の洗礼名を持ったが、のち背教している
スペイン人商人のアビラ・ヒロンによれば、喜右衛門は裕福な商人であったが、浪費好きで、身分不相応に見栄を張り、破産していたと伝えられる。人柄は極めて聡明で抜け目のない、腹黒い、目はしのきく男であると評している
文禄2年(1593年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京阪地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた
文禄4年(1595年)7月15日には秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄・慶長の役では朝鮮、明への侵略、征服計画が頓挫し和平交渉も難航、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)、同9月2日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していたキリスト教フランシスコ会に警戒感を強める情勢にあった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。
1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。ガレオン船には100万ペソの財宝が積み込まれていた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。
1596年8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。
長宗我部元親は投棄されず船に残っていた60万ペソ分の積荷を没収した。
長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷とともにその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きだと主張したが、南蛮貿易とそれに伴う富が四国に届くことはほとんどなかったことも判断に影響したとされる
スペイン人乗組員が抗議すると、元親は、秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれをうけて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した
一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人で長宗我部元親の友人である増田長盛が浦戸に派遣されることになった。
増田長盛はこの状況を利用して利益を得られると考え、秀吉にこの積荷を接収することを助言した。土佐に着いた増田長盛はスペイン人に賄賂を要求したが断られたため、サンフェリペ号の貨物を100隻の和船に積んで京都に送る作業を始めた。
それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していため、
まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。
増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。
このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
増田は「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、デ・オランディア(またはスペイン人船員)は次のような発言を行った。
「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」
これにより秀吉はキリスト教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。
この経緯はスペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている。
この応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったかについて定まった評価はない。
ひとりの人間の発言により、秀吉たちは驚愕したのか、
もしくは、とんでもない仮説だが、
スペイン船の財宝を略奪したことを口封じのために宣教師たちを処刑したのか、または、そのことが露見し、スペイン艦隊の報復を受けることを恐れたのか、
水先案内人(航海長)をしていたデ・オランディアの大言壮語とは対照的に、スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた
ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった。
サン=フェリペ号から没収された積荷の一部は、朝鮮出兵の資金として使われ、残りは有力者に分配され、中には天皇に届いたものもあったとされる。
この事件には、秀吉の対明外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。
また、乗員のうち四名のアウグスティノ会員は、フアン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲバラ両神父と従者の修道士で、管区代表としてローマでの総会に東回り航路で向かう途中であった。アウグスティノ会は改めて神父ニコラス・デ・メロ(ロシア語版)と弟子で日本人の修道士ニコラスのローマ派遣を決定し、1597年、西回りのインド・ゴア航路で送り出した。師弟は1600年、陸路ペルシア経由でサファヴィー朝使節団に随行しカスピ海・ヴォルガ川を遡上してモスクワに到達した。このため修道士ニコラスは初めてロシアを訪問した日本人とされる。だが両者とも王朝断絶からの動乱時代の騒擾に巻き込まれ、長期間の幽閉の後に処刑された
ニコラス・デ・サン・アウグスティノ(Nicolas de San Agustín、 ? - 1611年11月30日)は、17世紀のカトリック教会修道士。ロシア・モスクワを訪れた最初の日本人(日系人)とされる。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ制圧の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。宣教師たちは、キリスト教を広めることを第一の目的としていただけでなく、先住民の言語を学び、子供たちに読み書きを教え、大人たちには大工や陶芸などの職業を教えた。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた。
キリスト教が、侵略征服のためのものであるという考え方がいまだに日本では浸透しているが、それは事実ではない。
サンフェリッペの水夫のひとことを信じた秀吉が、感情で激怒し
腹いせに宣教師たちを殺害する行為は、まさに暴君としかいいようのないもの、
秀吉、家康、秀忠、家光らが恐れたのは、彼らが命を顧みることなく、神を信じ、殉教もいとわない、その精神へ対しての恐れであるとおもう。そのうえ、偏見が300年も続くのである。
秀吉が暴君でとんでもないやつだと、言いたかったであろう茨木先生の0点は、40年後に再提出を行いました。
先生、今度は何点でしょうか、卒業できなくていいです。
ずっと、学んでいた気分です