斎藤喜博先生は、偉大なる教育者であった。その教育理論や体系はおそらく、伏流水のようにいまにいたるのであろうか
御影小学校の日々
斎藤喜博先生は、定期的に御影小学校に来られていた、突然、どこかの帰りに御影によることもあり、そんなときは、担任の先生がびびりながら、合唱の披露を先生のまえでやったり、授業を見に来られたりしていた、
こどものころの記憶なので、あんまり覚えていない。
まず、御影小学校の子供たちは、国語教育において、文章読解力が高い。これは、自らも言えることだし、友人の証言もあります。さほど、成績のよくない私ですが工業高校でありながら、全国旺文社模試で全国60何位をとったことがある。自分でも不思議だった。これは、ずっと、自分の中でも謎だった。
本がすきになりました、作者の気持ち、主人公の気持ち、ドラマでもそうです。わかるのです。
あるとき、というか、最近、思ったのです。御影小学校の国語の授業のおかげであるということ
文章読解力とは、文章の内容や意味を理解する能力のことです。 これは文章を読む目的で使われ、文章を読む前や読んでいる間、読んだ後にも能動的に考えるために役立ちます。 自分が読んでいる内容を理解することで、文章から意味を読み取り、作者が何を伝えようとしているのかがわかるようになります。
いま、まさに、これが問題になっています。能力が低下しているのです。
読解力は、仕事やコミュニケーションを円滑的に進めていくうえで重要な力です。たとえば、会議で最後に質問してくるのがいます。話を理解する能力や応用ができにくい人です。たいてい、コミュニケーション能力もおとり、円滑に業務ができない、
日本人の読解力低下は、スマホの普及やSNSの影響、学習方法の変化などが原因とされています。そこです、斎藤喜博イズムがいつしか消えていったのではないかと、ぼくは思うのです。
先生が、やる気満々だったのを覚えています。授業をいかにおこなうかを、真剣に考えていたのでしょう。
ぼくは、教育者ではないので、とやかく言う筋合いはないのですが、現場のたいへんさは、あるとおもうのです、
そして
教育委員会と、文科省と、モンスターペアレントと、環境が複雑すぎます。
よって、
「先生になりたくはない」というひとが、増えてしまってるというのです、
小学校のありよう、どうあるべきか、中学受験の先走った教育ではいけないのです。偏差値教育はいまだにあるようですが、
ぼくらのときは、兵庫県方式という高校受験がありました。
兵庫県では、1967(昭和42)年以降に受験競争緩和の ために、「兵庫方式」と呼ばれる独自の入試方式を取り入れてきた。 この「兵庫方式」とは、公立 高等学校入試において、入学者に課す学力テストの成績によって入学者を選抜するのではなく、調 査書(通称「内申書」と呼ばれる。
「内申書にかくぞ」という隠し玉を教師にあたえるのです。この方式は別の問題もおこしたようだが、結果的に、合格するかどうかわかりかねるので、すべりどめの高校を必ず受けなければむずかしかった。本来は、成績だけではない、ということですが
ぼくが言いたいことは、御影小学校の教育と、御影中学の教育はまったく相違し、高校受験のための教育となった中学。
創造性自発性を持った勉強、その差であります。
現実だから仕方ない、世の中そういうもんだ、ということでしょうが、忘れ難いことがあります。ぼくらは、御影小学校はすごい、プライドをもち、全国的に有名な学校だ。と、思っていたら、
中学一年のとき音楽の飯島先生に ひとこと、「そんなもん、しらんわ、だれもしらんで」
と、全否定されたこと、忘れもしません。飯島先生。確かにあなたのいうことはもっともだと思いますが、
音を立てて崩れ去ったのを覚えている。友人のタチューが、はらをたて、抗議しても、知らん顔だった。
50年前でも覚えてる。
勉強意欲が喪失。テストの成績も良くなかった。そういう、斎藤喜博アフターショックの子供はたくさんいた。そういう子供はたいてい、高校受験戦争にも落ちこぼれてしまう。御影中学にも素晴らしい先生がおられましたが
御影小学校の 田村省三先生、福田先生。堀江先生。この御三家は、すごかったのです、#斎藤喜博 #⃣田村省三 #御影小学校
斎藤喜博先生は 定年前から神戸御影小、定年後は広島県大田小、室蘭啓明高、青森三本木中、呉鍋小、長崎森山東小、石川東陵小等々、斎藤の教育に共鳴する学校にそれぞれ毎年3回ほど定期的に訪れて教師と子どもたちを指導し、その成果を発表するために公開研究会を開いた。特に御影小、大田小、啓明高などは指導に入った年数も長く、公開研究会の回数はそれぞれ8回、6回、5回を数えた。これらの学校の当時の校長の回想記が、斎藤の個人雑誌『開く』30集(最終号、82年)や『総合教育技術』1981年10月号(特集=斎藤喜博ーその人と仕事に学ぶ)に載っている。また晩年には、全国の数多くの小中学校を「教育行脚」して回り、国語、合唱、体育(跳び箱、マット、行進)の授業を行い、教師と子どもたちを指導した。教育行脚での授業記録は『わたしの授業』全5巻(1977-82年、一莖書房)に収められている。ウィキペデイア参照
また、話は続きます。2024/12/10
ほんと、嬉しかったですね、群馬のかたがた、
2021年3月31日から4月30日まで、群馬大学図書館と群馬県立図書館で「斎藤喜博展」が催されたのである。ポスターでは、「戦後、群馬県の農村にある小さな小学校の名を全国に轟かせた伝説の校長、斎藤喜博。子どもの可能性を信じ、潜在能力を引き出す。その教育実践に迫る資料を紹介します」と謳っている。2021年は斎藤の生誕110周年(没後40周年)で、これを記念する展覧会だという。冷遇され続けてきた斎藤の生地で、このような再評価の動きが出てきたことは誠に喜ばしいことである。今後こういう動きが定着することを期待したい。 ウイキペディア 参照
ふと、思い出した、コの字型椅子配置
「コの字型」配置の教室、今おもうと、あの時期だけだった、60年以上も前に行われていた斎藤喜博先生の島小において、あたり前のように「コの字型」配
置で学んでいたそうである、みんなの顔が見れる、表情が見れる、みんなの参加する授業、みんなとともに学び、考え、感じ取る。
合唱の日々
音楽発表会があり、年に二度だったろうか、全学年が講堂で合唱を披露するのです。
まずは、舞台に出る前に緊張するのですが、袖から舞台にでるまでの間、斎藤先生は、見つめています。だらだらと出たときには
「やりなおし」もう一度、袖からでるのをやり直させられます、みんな、真剣に 胸を張り、どうどうと、前を見て 舞台まであるきます。
「すばらしい、その目!そうだ、すばらしいぞ」 ほめ倒します。みんな、認められたことで嬉しくなります。
よくよく考えると、歌の技術、うまい下手ではありません、いかに、歌の内容の 詩 そして、大きな口で 胸を張り、大きな声で
という指導になります、近年、ユーチューブでも、子供たちの合唱の風景をみます、
ぼくも、知らず知らずに、口の開け方を見てしまいます。
口の大きく開けた、その表現力のあるこどもに、感動します、気持ちが歌に入ってる。