御影の松

 

「世にあらばまた帰り来む 津の国の御影の松よ 面がはりすな」

昔の書物に御影という名前が出てくる、有名な、和歌。僕が子供のころ遊んだ、ラジオ体操の会場だった、「西方寺」さんに 江戸時代だろうか、

その名前の石碑が建てられている。この碑は、基俊さんが、京都から、有馬温泉に行った帰りに、ふと見た風景を詠んだものである、

1100年前後であろうか、平安時代ですね、保元の乱も平治の乱も起きていません、未だ平家が権勢を得る前です。

藤原基俊 平安時代後期の貴族・歌人・書家。藤原北家中御門流、右大臣・藤原俊家の四男。白河院政期前期の永長元年(1096年)の時点で、既に前左衛門佐であり、その後官職に就いた形跡がなく、藤原北家の出身で藤原道長の曾孫ながら官位には恵まれず従五位上・左衛門佐にとどまった。これは、学識を誇って高慢であり、公事に怠惰でもあったためと推測されている。鳥羽院政期前期の保延4年(1138年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。永治2年(1142年)正月16日卒去。
出典 ウイキペディア
この和歌は 有馬温泉に行った帰りだろうか、彼がふと見た海岸に美しい松原が見えたんだろう。
「世にあらば・・」というのは、生きていれば、もう一度見てみたい風景だということだろう。
しかしながら、名物の御影の松は、僕が子供ころは全く、どこに探してもなかった。いまでもある、御影中学の東の門の前の古松。石屋墓地の松。、この松はもうない、
御影町のマークも、高校から小学校のマークも 『松』でしたが、
もう、どこにもありませんでした・。

続く  2024/12/07

 

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ec3152803fe780d2c335edfc589cd46a63eb1b0c

御影中学の黒松についてのヤフーさんの記事 ↑

川岸の護岸や海岸に松が多いのは、松が塩風に強く、風雪にも耐えられる樹種であるためです。また、水分や栄養が少ない乾燥した土地でも育つことができるため、海岸や山の尾根などでも見られます。

松は、砂防林として海岸の砂浜に植えられてきました。海岸松林は、海からの潮風や飛砂を防ぐために先人によって植え、育てられてきたものであり、地域の人々の暮らしに貢献する重要な存在とされています。

そういえば、住吉のほうに、大きな松の防風林があった、というのを読んだことがある。

いまでも住吉川の護岸には立派な松が生えている、夙川でも蘆屋川でもそうだ。

石屋川も1970年代以降、公園に松を植えた、50年近くなるが、どうも他の河川のような立派な松ではない。おそらく、石屋川の地下水が少ないためだろうか

1980年前後から全国で松くい虫が繁殖し、大変な伐採となったのもある。

松は不思議な木である、そして、縁起のいいものとされ、昔の家の前には、松を植えたものです。

2024/12/21 記

 

浜街道は海岸の砂浜

御影の松が綺麗であったことと、酒蔵の話の接点ですが、酒蔵を海岸にどんどん建設していきました、江戸中期から、西宮から神戸に至る海岸に

そこには、黒松の砂浜があり、土地が埋め立て地のように空白であったのだと思います。だから、開発が早かったとおもうのです。

仮説 01 御影の浜一帯は、大きな砂浜と黒松の海岸であった。

 

御影本町8丁目の古い写真があります。高橋医院、〈廃院)の前にはお地蔵さんがあります、この古い街並みは戦前のものでした。。いつも僕が不思議におもっていたのはがくがくと波を打つように路がゆがんでいます。これはよくある城下町の路のように、敵が見えない道のようです。しかしながら、城はちかくにはありません。中世に赤松氏司城の御影城があります。そうかもしれません、しかし、僕はあることに気が付きました。

この道の反対側には、西方寺さまがあり、そこには藤原基俊の御影の松を詠む和歌の碑があります。

ここの一帯は、海岸線ではなかったのだろうか、そう思いました。

この一帯は全て地震で全壊しました、数多くの方が亡くなった、建物は古く、地盤は砂ではなかっただろうか

2024/12/08

菅公船繋の松

御影石町二丁目の綱敷天神のお旅所にむかしあった老い松。黒松。

この船つなぎの松の伝説はあちこちにある。綱敷というなまえの神社も瀬戸内のあちこちに存在する。

共通するのは、道真公が座るところないから、縄をくるくるとまるめて、座布団のようにして座ったという話。

ほんと、謎。

この御旅は、僕が幼少のころからの遊び場。国道43号線が建設される前は、もっと南のほうまでにあったに違いない。

江戸の天領時期には、おそらくなにかしらの建物があったとおもう。

ぼくの祖父、重雄は、石屋村で青年団長みたいなのをやっており、台風か、なにか、わからないんですが

その松が枯れたそうです。でかい黒松、どこかで写真を見た記憶があるのですが、その御旅には写真と碑がのこっています。

しかしです、黒松が1000年以上も生きるでしょうか 黒松の寿命は約200年と言われています。環境によっては早めに枯れる場合もありますが、何百年と生きるものもあります、何代目かの松だった、と思います。

祖父がみんなと相談して、伐採したそうです。昭和の初めころの話です。

そして、悪いことがたくさん、起きて、みんな松を切ったからだ、と、

僕が子供のころは、松もなく、其の後、植えられたみたいです、郷土史家などが東灘区からいわれたのでしょうか

いまでは、碑があるようです。

2024/12/21