18枚目
・この海に誓って
「この海に誓って」は、1978年8月にレコーディングされていた
松尾一彦のリードヴォーカル曲。この曲が、彼にとってオフコースへの初提供曲となった。
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1980年3月5日発売。
「生まれ来る子供たちのために」は、アルバム『Three and Two』からのシングル・カット曲で、アルバム収録曲と同内容。後にベスト・アルバム『SELECTION
1978-81』にビル・シュネーによるミックスで収録されたほか、ライヴ・ヴァージョンがライヴ・アルバム『LIVE』に収録された。
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ヒットした「さよなら」の次のシングルとして、この曲を発表した経緯について小田は「こういう曲をシングルにするっていうのはやっぱり、盛り上がったときにしかできないしょ? 普通のときに出していたら、良い曲だけど地味だ、っていわれるだけ。で、この時期にそういう曲を出して、次の活動につなげていきたいんだよね」「これはオフコースのテーマ、というか、僕自身のテーマなんだよね。日本はどうなっちゃうんだろう、という危機感て前からあるでしょ? でも結局、公害どうのこうのっていっても、そんな騒ぎはすぐ下火になっちゃう。日本人って、そういう部分で飽きちゃうんだ。それを自分自身でも意識しているべきだと思う。そんな意味で出しかった」と、リリース当時のインタビューで答えていた。
相当のEMIからの反対があり押し切り形で販売、しかし、セールスは落ちた。
しかし、この歌は後のセルフカバーなどにより有名になり、
アーチストがたくさんカバーしてゆくこととなった。 |
19枚目
やすの愛の終わるときは名曲です。
最高8位まで入る。
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1980年6月20日に発売。
「Yes-No」は、アルバム『We are』に収録されるが、アルバム収録とは別ヴァージョンでエンディングが若干長く、アルバムヴァージョンでは聴かれる、後半部での大間ジローによるカウベルが入っていない。ベストアルバム『SELECTION
1978-81』に収録されているのは、富樫要によるフリューゲルホルンソロのイントロにアルバムヴァージョンを編集で繋いだもの。この曲の歌詞について小田は「“抱きしめよう”はともかく、“君を抱いていいの”は、当時の歌詞の中でも一線を越えてた。でも、そこを超えたから、みんなのアンテナに引っ掛かったんだよ。世の中には、いい曲だけど地味な曲って、たくさんある。それは、歌詞が一線を越えてないから、アンテナには引っ掛からないってことなんだよ。ただ、いくら引っ掛かるとは言っても、曲のタイトルを『君を抱いていいの』にしてはならない、というのも考えたけど」「ずっと疑問文で成立している。そして最後に相手に責任を取らせる歌なんだ。“どうなんだ”って、突きつける。当時それならタイトルは『Yes
or No?』じゃないかって言った奴がいたけど、突きつけてるんだ。だから『Yes-No』なんだ」とし、「『週刊新潮』のコラムに『女の子にキャーキャー言われながら“君を抱いていいの”って、いい歳をして』って。いやぁ、そんなこと書くんだなぁって思ったよ。あと、客席のファンの人達が“タン
スタタン”て間の手を入れ始めたのも、この頃からだろうね。“ああぁ~ 時はぁ~”のところで、そう手拍子するようになった。でも、『週刊新潮』も“タン
スタタン”も、俺達がお願いしたことではなかったんだよ」とも、『YES-NO 小田和正ヒストリー』でのインタビューで答えている。w引用
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この曲は後に小田がシングル「風の坂道」のカップリングとしてセルフカヴァーし、アルバム『LOOKING BACK』にも収録された。小田自身コンサートでも一時期、この曲をセルフカヴァー・ヴァージョンで演奏したことがあるが、2000年のコンサートツアー以降と、TBS系『クリスマスの約束』ではオフコース時代のアレンジに戻している。
「愛の終わる時」はオリジナルアルバムには収録されず、「Yes-No」と同じく『SELECTION 1978-81』に収録されたが、その際ビル・シュネーによりリミックスされ、間奏部が11秒程短くなっている。w引用。
この題名が決まらず小田さんはずっと考え。当時なかなかでないテレビに出ていたときもうわのそらで考えていたそうだ。
NHK[若い広場〕の討論大会で参加していた、司会者に質問されても上の空で・。ひどいよ小田さん、
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20枚目
アンコールの歌が
僕等の時代になった。
いつもいつもがそれまでだった。
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1980年12月1日発売
「時に愛は」、「僕等の時代」両曲ともアルバム『We are』からのシングルカット曲で、アルバム収録曲と同内容。
「時に愛は」での間奏部のギター・ソロは松尾一彦、コーダでの掛け合いは松尾、鈴木康博の順で交互に担当している。歌詞について小田は「歌の中で、崩れ落ちそうにみえた“愛”が復活するのは、そもそも“愛”というものがONとOFFを無数に繰り返す感情であることを歌ったがため」と、
『YES-NO 小田和正ヒストリー』でのインタビューで答えているw
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9位まで入り、
このころからベストテンなどの
テレビの以来が増加し、
出ることはなかった。
久米さんが「オフコースのみなさんは今週もでません・。」
といっていたのを思い出し、サザンなどは気さくにでていたので
対照的な頑固さでした、
一度、スタジオからなぜでないか
という中継もあったようですが
僕は見てません、松山千春もでないといいながら、口説かれてでたときに語りすぎて百恵さんが歌えなくなった。オフコースは最後にリクエストはがきに動向き合うのですか?担当者にいわれ、最後の番組として{NEXT}ができて、そのつながりで風歌ができてクリ約へとくるのである。 |
21枚目
夜はふたりで
最高7位まであがり
人気は絶頂を迎える。
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1981年6月21日に発売
「I LOVE YOU」はベスト・アルバム『SELECTION 1978-81』に収録され、その後再レコーディングされたテイクがアルバム『I LOVE YOU』にアルバム・ヴァージョンとして収録された。アルバム・ヴァージョンは間奏部にジョン・レノン訃報のナレーションが挿入された。
この曲のレコーディング中、隣のスタジオでレコーディングを行っていた
加藤和彦がスタジオを訪れ、曲を聴いて「これがシングルなの? 売れているときは何でも出来ていいね」と驚いたというw
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ジャケットはタイプライターで打たれた紙が写っているデザインで、最後の2行は次のコンサートツアーが1982年1月から始まることを伝える文章になっている。レコード発売の駅貼り用ポスターは国会での強行採決の写真が使用されているが、「政治家の顔がはっきりしなければ」との条件付きで許可された。w
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22枚目
Christmas Day
Christmas Day はアルバム未収録であるが
解散後、ベスト盤などに
はいっているようだ。 |
1981年12月1日発売。
「愛の中へ」はアルバム
『over』からのシングルカット曲でアルバム収録曲と同内容、アルバムと同日に発売された。この曲は後に小田がアルバム『LOOKING BACK 2』にてセルフカヴァーした。
「Christmas Day」はFM東京(当時)で放送されていた「パイオニア・サウンド・アプローチ」のために同年制作された小田 • 鈴木の共作曲で、ヴォーカルも揃って担当している。w
最後の
共同作品かもしれない・・。
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「語らないオフコース」は人気を高めてゆく。小田さんとヤスの間の軋轢や心の行き違い
なんてのもあったのだろう。
NHK教育のテレビ「若い広場」で 愛の中への録音風景をみた、
小田さんのキーにあわせて、ヤスの声ももっと高い声がでるようになったというが、
すさまじい、高い、その音程を保つには音感もかなりのものであろう。
「ナンダコレー」とヤスがさけぶ、
小田さんはすかさず、楽譜を説明しに行く
いろんな、ヤスのコーラスのテイクを重ねてゆき、ハモラサセルのであった。
積み重ねるように作る曲、
イメージの中で曲ができて、それにあわせた詩が天から降ってきて
試行錯誤して、編曲をおこない、最後に題名で完成。
建築の手法なんだろうかね |
23枚目
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君におくる歌
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1982年2月1日発売。
「言葉にできない」、「君におくる歌」両曲ともアルバム『over』からのシングルカット曲で、アルバム収録曲と同内容。
「言葉にできない」は、
「Off course Concert 1982 “over”」の最終公演地日本武道館での10日間連続公演最後の6月30日と1989年2月26日に東京ドームで行われた“The Night with Us”で、小田和正が涙で声を詰まらせ、歌えなくなった,W
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“over”ツアーの武道館公演では曲の後半部分で映画『ひまわり』の中の、一面に広がるひまわり畑のシーンがスクリーンに映された。このアイデアについて小田は「まさに言葉にできないほどの、圧倒的な花の映像が欲しかったので、映画の版権の一部を買い取って武道館一面、ひまわりで埋めたんだ」と、後のインタビューで答えていた。
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24枚目
yesyesyesの歌の中には小さい女の子の声で
「ねえ、私のことすき?」
と入っている。
タムジンが撮影。レコーディング中のフリーダムスタジオ二階の階段の踊り場に簡単なセットが組まれ、田村仁によって撮影された。
撮影していたのがNHKのDVDでみた。
P4NEXT |
1982年6月10日に発売された5人時代
オフコースの最後のシングル。
「YES-YES-YES」は、アルバム
『I LOVE YOU』に収録されるが当初はシングルとしてのリリース予定はなかったものの、メンバーの意向で急遽シングルでのリリースが決まった。アルバムのミックスダウンはビル・シュネーが来日して東京のスタジオで行う予定だったが、リリースに間に合わせるためメンバー自らミックスダウンを行った。結果としてアルバム収録のものとは別ミックスでエンディングも10秒ほど長い。W
そして5人時代は終焉。
小田和正自身の構想はまったく白紙。
音楽を辞めようと考えていた。
ひとしのアドバイスもあり
四人で再起動してゆく
P4へとつづく。。 |
6月30日の武道館コンサート最終日、コンサート終了のアナウンスのバックで「ひととして」に続いてこの曲が流れ、スタッフによるステージのバラシ(後片付け)が始まったところ、流れていたテープの音が聞き取れないほどの観客の大合唱となった。
メンバーはおそらく袖口でみていたんだとおもう。
メンバーの生涯の思い出となった、5人オフコースへのレクイエムにもなったことだろう。小田和正の深い記憶は後の自分のシングルに会場のみんなに歌わせるということをしたのだが、それはこの影響であったのだとおもう。
武道館のライブの最後のシーンはオフコースの若いファンたちがそれぞれ、学校の制服であったりする子もいたんだけど
心にしみるシーンをなった。
その音源をミックスしたテイクがアルバム
『NEXT SOUND TRACK』に収録された。
「メインストリートをつっ走れ」は、アルバム『over』からのシングルカット曲で、アルバム収録曲と同内容。この曲のヴォーカル録りはアルバムレコーディングの最後に行われ、ミックスダウンのための渡米当日朝まで行われた。この曲は後に鈴木がアルバム『BeSide』にてセルフカヴァーしている。
ジャケットに使われているメンバーの写真は、レコーディング中のフリーダムスタジオ二階の階段の踊り場に簡単なセットが組まれ、田村仁によって撮影された。
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