offcourse-love 本文へジャンプ2011.1.21UP
オフコースの歴史
シングル
2016年03月03日 木曜日UP


 オフコースは再結成されない、
絶対に無理だといわれている。
しかし、ぼくはあきらめない。
必ずもう一度、年寄りオフコースを
みれることを・・。長七


ブログ

オフコース 伝説のグループ

オフコース。もう誰も語りはしない。
もう結成されることもない。 優しさの時代。愛の時代。 あの時代はどんどん遠く・・。


管理人のオフコースのブログ
最近更新していませんが・・


大人の雰囲気のツアー。
MYの夜景のバックがすばらしい



  • スナップ・ショット—オフコースその夏まで』  藤沢映子 著  

藤沢さんのオフコースのほんは
他にもあり、情報がでない
オフコースのことをしることができた。



このツアーは実に長く
ハードな日々が続いた。



伝説のひまわりの映像
ソフィアローレンの
「ひまわり」
の映画から引用されたもの、
多額のレンタル料をはらって
この映像がえらばれた。









すばらしいLP over
僕のこころにいまだに響く・・。









オフコースのあるファンのサイトは
永遠、製作中・・






































オフコースシングルの歴史。
オフコースは数多くのシングルを出していった。他のアーチストと同じように
シングルでヒットを狙い、ファン層の拡大を狙ったのである、しかし、オフコースのファンはコアな学生のファンが多く
LPを買うがシングルはあまりかわない。
LPにはいっているからだ。
オフコースを売ろうとする東芝EMI
しかし、一向にヒットの兆しなし、
「さよなら」のブレークが実は
10年近くかかっていて、そのさよなら前後でヤスは皮肉にも脱退を決意する・。
36枚のシングル



シングル曲名 発売日 備考

wはウィキベティから引用。

一枚目アマとして

群衆の中で ⁄
陽はまた昇る 

クレジットは ジ・オフコース

ひとなみどこにながれる・・

ヤマハは何とかこの歌を売り出そうとし
しかし、小田地主は卒業に卒論に追い込みをかけ、
ヤマハはなんとかプロモートしようと
新曲コーナーに出演や、ラジオなどの仕事を持ち込むが本人たちは出る気などなく、
「オダクンータノムヨー・・」
と泣きそうな声で大人たちが交渉をしていた。
赤い鳥は順調に仕事をこなし
ヤマハは赤い鳥とオフコースの
ジョイントリサイタルをおこなうこととなった。

8人の音楽会である。

  • 1970年4月5日
ヤマハの1969年11月2日、新宿厚生年金会館大ホールで開催された
第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国グランプリ大会でフォーク部門第2位の縁でヤマハからEPをだすことを提案され出すには出したがプロモートなどに問題があり、ヤマハとはこれで縁がきれる。w

オフコースのメンバーに
「レコードをだしてみないか?」
と軽く誘ったことが発端。
プロとかアマとかそういうの関係なしで

曲はコンクールで入賞した曲を用意し
演奏はスタジオミュージシャンで行い。
オフコースは歌うだけ。
カラオケを聞かすとオフコースのメンバーは「まあまあだなあ・・」といい
コーラスアレンジを練習し始めた。

問題は作詞であった。
山上路夫氏に依頼したのはいいが
までどくらせど詩はできあがらない。
スタジオで約束の日にまつこと数時間。
それでも届かない。

日を変えて
オフコースはスタジオでまつ
オフコースは
「今日、詩ができなければ

ぼくたち!おります!」という。

しかし、それでも詩はできない。

何度もデェレクターに説き伏せられ

できない
降りるを繰り返し、

レコーディングの日がとうとう終わりになってきた。
小田の実家に待つこと三人。

「僕たちもう降ります!」
と電話を山上さんに電話するも
再び説き伏せられ・・

夜10時過ぎやっと、出来上がる。
スタジオでまつ担当者は電話で
その詩をノートに書き写し
やっと、歌は完成した・・。
地主道夫が参加した唯一のシングル。

山上路夫が作詞
個人的に歌詞もよく、
ハーモニーもすばらしい。
このコンテストでグランプリをとった【赤い鳥】とのジョイントコンサートで披露された。
しかし、地主は名古屋の帰り
脱退をしサラリーマン建築にもどることになる。w

LMCが終わった時点で
学生グループ
ジ・オフコース?は解散の予定であった。それぞれ卒業に向け動き始めていた矢先、ヤマハはそのコンテストで「赤い鳥」と「オフコース」を売り出してゆくことを決めて
オフコースとヤマハ担当者のバトルが勃発した。
担当者談・・。
「なにしろ、オフコースは扱いにくいうるさい連中だった。なにかというとそういう仕事はしないと、文句を並べる。当時のシンガーソングライターブームのさきがけのような時期でオフコースは実力はあったし、小田君はいろいろなことがありましたからそのたびにヤマハの陰謀だとか、やり方が汚いとかヤマハのことをバカにしてました・。あとでプロになったけど、あれではやっていけないのではとおもってました。
しかし、信条を持って、軌道をはずさず自分のやりたいようにやっていく姿はよかったのではないかとおもう。」
はじめのいっぽより
二枚目プロとして

夜明けを告げに/
美しい世界

クレジットは 
ジ・オフコース
この上の二枚とも
幻のシングルとなっており
オフコース自身も自分
たちの歌ではないということ
で演奏もしないようになった。


1971年10月5日
ヒットを狙って
レコード会社が用意した
加藤和彦作曲による作品。

プロとして1枚目のシングル制作にあたり梅垣は、オフコースと専門家の両方が曲を作り、その上で検討という形をとりたいと思った。しかし、当時24歳でまだ駆け出しのディレクターだった梅垣にとって、著名な作曲家に依頼してできた曲がイメージに合わなかった場合簡単には断れない状況も想像できた。そこで思いついたのが、関西にいた頃の友人だった加藤和彦。早速彼にオフコースの演奏テープを渡し、作曲を依頼した。梅垣は「加藤君が作ったのはアップテンポの軽快な曲で、小田君のはメロディーのきれいな曲だった。僕は元々“その線”のオフコースに惚れ込んだわけだし、小田君の曲は気に入ったの。でも難しすぎるんですよ。転調はするしコード進行は難解だし、大作なの。で、手を加えて簡単にしようかとも思ったけど、明るい感じのほうが良いってことで、加藤君のをA面にしました。でも小田君の曲は、青木望さんにアレンジをお願いしたらますます大作になって、良い曲でしたよ」と、シングル制作の経緯を語っていた。w

地主道夫が抜けた後、小田和正と鈴木康博の2人となったジ・オフ・コースが聖光学院の後輩だった小林和行をサポートメンバーとして加えて発表したセカンド・シングル。ディレクターは当時“ボン・ミュージック”(音楽出版)所属の梅垣達志。以前からヤマハと関わりのあった梅垣は、偶然聴いたオフコースのデモテープにフォークとは違う今までにない音楽を感じて、彼らをプロの道に入れる。編曲は当時エキスプレス・レーベルの作品で多くのアレンジを手がけ、のちにデビューアルバム『僕の贈りもの』でストリングスアレンジを担当する青木望。このシングルがリリースされる直前、“パシフィック・エンタープライズ”への所属が決まり、彼らはプロとしての一歩を踏み出した。

三枚目

おさらば/
悲しきあこがれ




オフ・コースという
名前になるが
「・」画はいる。

1972年4月25日発売。

小田和正 • 鈴木康博 • 小林和行の3人編成だったジ・オフ・コースが、コーラスに吉田浩二を加えて「オフ・コース」と改称して発売した、このラインアップでの唯一のシングル曲。

東海林は二人の実力を高く評価していて、様々な形でオフコースを売りだそうと面倒をみた。そのひとつが東海林が音楽監督のような立場にいたNHKの若者向け番組『ステージ101』の“ワカとヒロ”の後任をオフコースがやらないかというオファーだった。番組を見学に行くと二人は歌って踊っていた。「最終的に自分達がやりたいことが出来るならどんなチャンスも生かそう」と言う鈴木に対して、楽器も持たずに踊りながら歌うことに抵抗を感じた小田はこれを拒否、最終的にこの話は実現せず、やがてオフコースと東海林との関係も終息する。

カップリング曲と共に東海林修の提供曲で、編曲も自身が担当している。東海林はオフコースをコーラスワークをアピールするヴォーカル・グループとして売り出すことをイメージして、彼の力添えで1972年5月13日にTBSで放送された
『第1回東京音楽祭』に出場し同曲を歌うが、入賞できずに終わる。このとき垣間見たテレビメディアの酷悪さに驚き、以後テレビ番組へはほとんど出演せず、レコード制作とコンサート活動に専念することになる。w

作られたコンテストには入賞するはずだったとか、この歌も決してアルバムには入らない、抵抗があった。
この上の三枚のシングルは
まったく売れなかった。
ここで彼らの運命は
きまるのである
・・。
二年の月日が流れ
同時のデビューした連中は
どんどん売れてヒットをだして
ゆくが
オフコースはまったく
売れる気配はなかった
自分たちで歌を作り売ってゆくということ、
同時期に出た、「ガロ」が
同じように他人の作った
「学生街の喫茶店」
がヒットして、後の活動では
悩んだらしい・・。
オフコースは逆説的に
他人の歌で売れていたら
後の彼らの苦労は、作品は
なかったのだろう。
すべて自前でやろうと
言う意思はこのときの生まれたのではないか、
編曲も必ず自分たちで
行う、人の作った歌は歌わないなど
頑固な考えになったのは
このころの「扱い」
に起因しているのではないだろうか
四枚目

僕の贈り物
/めぐりあう今

1973年2月20日

このじゃけはデザイン的
にもすぐれているのだが、
相当いやだったらしく。
わざわざ、写真で何年後かに
出している・・。


このシングルもいろいろあったようですがLPの先行EPとして発売、オフコースがやっとオリジナルで自分の作品で勝負した記念すべき歌。オフコースはこの歌から始まったといっても過言ではない。小田さんはことあるごとに自分の「原点」をして、セルフカバーをしている・・。 シングルがリリースされた同月1日、それまで所属していたパシフィック・エンタープライズを離れ、サブミュージック・パブリッシャーオフィス
杉田二郎
と設立。
五枚目

もう歌は作れない


1974年4月5日発売

アルバム

この道をゆけば ⁄ オフ・コース・ラウンド2の先行シングル。
LPでは
「別れの情景1」と名前がつけられた
六枚目
忘れ雪
1974年10月20日に発売

忘れ雪事件

忘れ雪」、「水いらずの午後」両曲ともこのシングルのみでの収録曲。W

このシングルはレコード会社からヒットを要請されていたプロデューサーの橋場正敏が用意した楽曲で、小田和正と鈴木康博ともアレンジおよび演奏には参加させてもらえず、ボーカルのみの参加。リードボーカルは「忘れ雪」を小田、「水いらずの午後」を鈴木がそれぞれ担当している W

1974年6月末、新しいシングルの打ち合わせがあり、レコード会社から、詞と曲とをそれぞれ専門家に依頼するという提案が出された。話し合いの結果、小田 • 鈴木の曲と合わせて3曲録音し、その上で検討すると決まった。完成した曲は、小田作「キリストは来ないだろう」、鈴木作「白い帽子」、そして松本隆作詞、筒美京平作曲「忘れ雪」。グレープの「精霊流し」が大ヒットした直後で、「忘れ雪」は似たタイプの曲だった。結局レコード会社は「忘れ雪」を強く推し、メンバーが納得しないまま発売となった。W

7枚目
眠れぬ夜 ・昨日への手紙

オフ・コースの最初のヒットである。

ジャケットの写真は『ワインの匂いと
同じ新宿御苑での別カット。

昨日への手紙

実に名作である、やす自身も
セルフカバーをしている。

1975年12月20日発売。

「眠れぬ夜」、「昨日への手紙」はアルバム『ワインの匂い』からのシングルカット曲でアルバム収録曲と同内容、アルバムと同日に発売された。

「眠れぬ夜」は実は小田が最初作ってきた当初はバラード調の曲だったが、レコーディングの際ミディアム・テンポのロック調にアレンジが変更された。この経緯についてプロデューサーの武藤敏史は「それまでのアルバム『僕の贈りもの』と『この道をゆけば』に足りなかったものは何か。それはオフコースの場合、無条件に、理屈ぬきに誰もが楽しめるような曲や、シンプルな曲が少なすぎたのではないだろうか、と僕は判断したわけである。そして『眠れぬ夜』をあのような曲調にしてしまったのだが、作者の小田君にとっては、当時それがかなり不満だったらしい。だからどちらかというと僕が強引に自分の意見を押し通してしまったといえるかもしれないが、もちろん彼らも最終的には納得してくれて、その後、オフコースのステージになくてはならない曲のひとつとして歌い続けられていることは、皆さんご存知の通りである」と後に語っている。結果として、オフコースにとって初のスマッシュ・ヒットを記録した。W

西条秀樹もカバーをした。
基本的に
アルバムを作ることが
彼らオフコースの目的で
「シングル」はついでであった・。
シングルはレコード会社のため、
LPは自分たちの作品。
といった考えで5人時代まで続き、よって、LPはセールスがあがるが、シングルは
最後まで一位を獲得することはなかった。
一位を獲得しないほうがいい。
それこそが路を外れる。
OFFCOURSE
そのものであるのだ。

8枚目

ひとりで生きてゆければ
・あいつの残したものは



29才になるまでタバコをすっていた
オフコース。

青春の葛藤というか
1976年5月5日発売。

「ひとりで生きてゆければ」はアルバム
song is love』に収録されるが、アルバム収録曲と同内容。この曲は後に小田がシングル「遠い海辺」のカップリング曲としてセルフカヴァーしているが、そこでは歌詞が一部書き換えられている。ベスト・アルバム『自己ベスト-2』収録に際し、再び元の歌詞に戻された。

このシングルより、プロデューサー武藤敏史の紹介で、武藤が以前ディレクターを担当していた“ザ・ジャネット”の元メンバー
大間ジローがレコーディングに初めて参加した。そして発売日の1976年5月5日、オフコースに加入する。W

1975年12月、渋谷ジァン・ジァン、新宿ルイードでのコンサートをもって解散したザ・ジャネットは、最大の理解者だった武藤にとって、彼が初めて一から育て上げたミュージシャンだった。彼らの道が開けるように尽力したが及ばず、解散を思い留まらせることもできなった。特に大間と松尾一彦の力を評価していた武藤は、彼らが再び音楽をできる場を掴めるように望んでいた。

ザ・ジャネットの話は別に・・
9枚目
めぐる季節
ランナウェイ


青山の喫茶店で絵になる二人。
鈴木さんほんとうにかっこいい・・。
1976年10月5日
前回から5ヶ月、なんとかオフコースを
売ろうとしていた・・。

「めぐる季節」、「ランナウェイ」両曲ともアルバム
SONG IS LOVE』の先行シングル曲で、アルバム収録曲と同内容。

「めぐる季節」ではプロデューサー武藤敏史の要請で松尾一彦
大間ジローと同じくザ・ジャネットの元メンバー)がハーモニカでレコーディングに初めて参加した。松尾はその後、アルバム『SONG IS LOVE』のレコーディングにも引き続き参加することになる
10枚目
こころは気紛れ
/あなたがいれば
song is love のLPから


三枚目のシングルカット。
ぼくもこのLPは名作だとおもう。


ジャケットのイラスト。劇画風。
この作者をしりたい・・
so1977年二月五日
前回より4ヶ月ぶり
「こころは気紛れ」はアルバム『SONG IS LOVE』からのシングルカット曲であるが、再レコーディングされている。この経緯についてプロデューサーの武藤敏史は「そのとき初めて彼らに、僕が『シングル盤用にアレンジしなおして欲しい』と、レコード会社的要求と発言をしたことをよく覚えているW
ひとし(清水仁)さんが参加し、オフコースの5人体制が整った、音的に広がりを見せ、ロック色をつよめつつも
オフコースらしさが出ている曲。
Lpバージョンはアコーステックでテンポがすこし遅い。
ゆったりとした感じ。
小田さんはこの歌をおそらく
気に入ったであろう、しかし、
ヒットせず。
小田さんはあとでセルフカバーもし
英語版でSUSANとして
出そうとした。
シングルバージョン
LPバージョン。

英語バージョン、
セルフカバーバージョンがある。
「女性批判」に歌であるのだが
なんかごまかされている・・。
P2 シングル
P3 五人時代のシングル
P4 四人時代 解散への道

私的オフコースの音楽とあの日

ぼくのなかのおもいではあの時代のオフコースの歌とともに眠っていた。
ダンボールの中にあった、オフコースのLP、その段ボールを開けたとき
数々の記憶がよみがえる・・。



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 引用・・Wikipedia:ウィキペディアから引用

シングル・オフコースのの記事を引用。
はじめの一歩から引用。



「はじめの一歩」サンリオ刊1983年オフコースカンパニー
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