1973年2月1日、
サブミュージック・パブリシャー・オフィスは、社長杉田二郎。役員、小田和正、鈴木康博、上野博でスタートした、サブ、という名前は確か杉田さんの犬の名前。
上野氏がオフコースを先導し、解散においこんだ張本人という話をどこかのサイトで見た。実に奇妙な話の展開だ。ぼくはそうはおもわない。上野氏がいたからこそオフコースはいろいろな活動ができたとおもう。
小田さんは、オフコースが売れて稼げるようになるために、小田中心でいくべきだと、
上野氏からいわれたのだろうか?
オフコースがそもそも、形にとらわれることなく音楽のいろんな試みをしようとしていた、フォークからロックになってしまい。3人のハーモニーから二人ハーモニーになり、
5人になれば、どうしても前に一人立ってイメージを作り上げていかなかればならない。
上野氏は、なぜ、マジョ氏といわれるのだろうか?不思議なひとだからだろうか・
しかし、経歴を見れば判るように、10年近く、オフコースと関わった人間である。
い。
上野氏はまず、フォークからの脱皮をしようとして「ニューミュジック」というジャンルを
イメージ化し、ヤングゼネレーションというオフコースたちと同世代のグループをまとめて売ろうとし
武道館のライブなどをした、その功績はおおきい。
上野氏は、オフコースのモチベーションをあげるため、常に次の目標を提示し
たとえば、秋ゆく街での中野サンプラザ公演を成功させたり
「小さな部屋」シリーズでオフコースたちを売りだしていったのだ。
しかし、サブ自体が債務超過となり解散し、オフコースを離れる。
その後、外タレを呼ぶイベンタ^−のような仕事をし、当時、大ヒットした
BCRなどを日本に呼んで人気をえたのである。
音楽の功績は大きい。
以下自分のブログ記事
アーチストがよく、いい仕事や作品ができるかどうか、
本人に力もあるが、導いてくれるひとがいないとだめだ。
たとえば、プライベートにしても女性関係でも、仕事の内容も、ストレスを抱えて
やくににげるとか、そういうのが、注意できたり、指導したりするのが
マネジャーである、
そういう意味で、上野博さんの存在はでかい、
上野博さんは、通称、「マジョ」という、男でなんで、魔女なのか、
ぼくは、実物を拝見したのはおそらく、あの1982.6の武道館の中で
数秒写る背広のひとだとおもうが、痩せ型、長身、細面のかんじだろうか、
それよりも、仕事が魔法のようなかんじなのだろうか。高校時代のバスケット部時代から
つけられたいたそうである。
上野博氏は、あまり表に出てこない、
昭和25年11月生まれ、58歳、小田さんよりも年が下?
「おだ!」といっていたのは、??
大学浪人時代に、高石事務所にバイトをしだし、その事務所はのちに
音楽舎なる、
仕事は、シューベルツのマネジャーであった。
メンバーは、はしだのりこひや、杉田二郎さんなど4人。
たいへんなうれっこになり、彼らが解散後は、はしだのりこひとクライマックスの
マネジメントをおこなう、「花嫁」という歌がヒットしましたね。
1973年「サブ・ミュージック」設立の参加をする、そのために上京。
サブというのは、ジローさんの犬ノ名前だったかな??
杉田二郎のマネジメント、大阪のDISCOで見つけた「バッドボーイズ」の売り込み
それに、オフコースの売り出しとかであった。
当時、オフコースは非常人見知りをするし愛想はないし売る気もないし、
そういう、ある意味、おぼっちゃまのエリート学生上がりの彼らを
フランクな感じで、オフコースをひっぱろうとしていたのだろう。
小田さんが、
そう、「水曜日の午後」の歌みたいに、
早稲田の大学院にいきながら、半プロみたいな生活をしている間、
論文を書く間、マジョの家から、大学にかよっていたこともあったらしい。
オフコースが、いろんな事をしていったのは、上野さんのおかげ、
たとえば、あのサンプラのライブのことや、
小さな部屋のコンサートシリーズや、すべて彼の発案であった。
年末のクリスマスの約束は、その延長線上にあるといえよう。
上野博氏