オフコースは再結成されない、
絶対に無理だといわれている。
しかし、ぼくはあきらめない。
必ずもう一度、年寄りオフコースを
みれることを・・。長七
オフコース。もう誰も語りはしない。
もう結成されることもない。 優しさの時代。愛の時代。 あの時代はどんどん遠く・・。
管理人のオフコースのブログ
最近更新していませんが・・
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新田和長氏
この1989年の解散まじかのファンクラブの会報に
株式会社 ファンハウスの社長 新田氏が、オフコースとのであいを
書いている、
1969年新田氏は、東芝EMIに入社。新人Dとして、アーチストを探していた。
偶然、ラジオから流れた、ある番組のアマチュア特集の中の
一つの歌。
「ONE BOY」が流れてきた。
新田は、衝撃的な印象を受けた。
コーラスワークのすばらしさ、センスが抜群。
ボーカルの小田の声、
「 すごい! こいつにあってみたい!」
当時は、ジ・オフ・コースとして、アマチュアであり。
小田は東北大学、鈴木は東京電機大学、
音楽との両立で悩んでいたころ。
新田氏は、元元、リガニーズという
カレッジポップスの人気グループのメンバー
なんとか、小田らに会うことができた。
しかし、彼らのモラトリアム状況へのアドバイスも新田はうまくできず。
とりあえず、東芝と契約させ、
昔からある、レコード会社のやりかたで
なんとか、レコードをだそうと、レールにのせたのである。
群集の中で
小田、鈴木は、アマチュアのような音楽でない、プロとしてきちんと
やりたいと、そうねがっていた、
その歌は、歌手としてのもんであるからだ。
当時は、シングルで稼いで、LPを自分たちの好きな作品に仕上げるような感じであった。
外国のアーチストを参考例にし、試行錯誤をかさね、
新田氏の後輩、武藤氏とであい、初期のオフコースとしてやってゆく。
武藤氏は、ジャネットでうまくいってなかった、松尾、大間を音楽を続けたいという
気持ちを大事にし、レコーヂングに参加させる、
新田氏が担当していた、バッドボーイズから、仁をオフコースのバックに参加、
そして、オフコース 5人の時代となってゆく。 運命はまだ続く。新田氏は、東芝EMIから独立し ファンハウスを設立させる。 そこに、オフコースは参加したのである。 オフコースは影口たたかれる。 「 小田さんがそそのかした 」 「オフコースは、裏ぎりもの 」
4人として、何とか、ヤスの抜けたあと、立ち上がった彼らには 新しくやろうという気持ちと、契約更新のことと 新田氏のためと、
あたらしく 4人時代となり、オフコースはファンハウスから、 LPをだす、
しかし! 東芝EMIは、同時期、ベスト盤をだすから、認証しろ!とせまる、
新しいLPを出すてきに、昔のベストをだせば、セールスは落ちる。
「いやがらせか?」
小田さんは、最後の交渉時、きれてしまい。
「 カッテニシロ!!」 と放棄してしまい。
それから、数多くノベストがCDになりでた。本人たちもわからないぐらい ベストがでて、
そう、いまも、またでてる。
印税がはいるから、いいじゃないか。 そういう問題ではない。
アーチストは、前に前に、進んでいかなければならない。 いつまでも、過去に縛られていては、
新しい作品をうみだせない。
ファンハウス 1984年、東芝EMI株式会社から同社の100%出資により一制作部門が分離独立し、同時に主要アーティストも株式会社ファンハウスに移籍。(実際には移籍は実現しなかったが、発足時には長渕剛も名を連ねた。また、甲斐バンドは一旦移籍したもののファンハウス時代の音源を買い戻して東芝に再移籍した。)
後に東芝EMIが石坂敬一に社長を交代すると同社から全株を取得し完全独立、東急グループの一角を成し、Bunkamura内にTOKYU FUN
STUDIOを設立。(現在は売却) 販売委託先をポリドール株式会社(現・ユニバーサルミュージック株式会社)に移管。
ポリドールに石坂氏が移ったのを機にBMG
JAPANに販売委託先を移管し、後に同社と合併。また、創立者である新田和長はBMGファンハウス副社長を経て独立、ドリーミュージックを設立する。
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