nishizawa kazuhiko

オフコースは自分たちのため会社を設立し、オフコース・カンパニーという名まで
社長は小田和正であった。小田は社長でありながらバンドのリーダーでもあり、アーチストでも
あるために、社外の人間との交渉や付き合いなどが必要であったが、
基本的に「愛想が悪い」「言葉がたらない」「誤解されやすい」点で
西沢氏が交渉に当たる場合が多かった。
オフコースカンパニーのチーフ・マネージャーであった。
1978年にマジョ氏に誘われて入社。
それまでは、音楽舎で音楽業界の仕事をしていた、しかし、その事務所が分裂し
「きさらぎミュージックファミリー」と「サブ・ミュージック」に分離し、
きさらぎの方に西沢氏は入った。
岡林や遠藤など有名なフォークの人間がいる事務所。デザイナー志望の西沢は
コンサート関係のチラシチケット。また、LPのデザインなどを担当。
しかし、またもや二年もたたず、きさらぎの解散にでくわし、仕事をなくす。
URCや秦氏の話や音楽舎の創設の話は、拓郎以前のフォークの世界における話で
相当、古い話。ここいらの話は日本の音楽の歴史の話になるとおもうのですが
そういう学術的なもしくは記録的な文献はあまりみることができない。
オフコースとそれらの音楽はぜんぜん違うもので、年代的にはほぼ同時に近いのですが
秦氏が高石を見出し、労働問題や共産党関連の入り口であったこともあったのだが
当時の安保問題、労働争議、学生運動を背景に考えれば
「流行」であったのだ、しかし、それらの空の雲のように刻々と変化し、事務所は離散集合して
ゆくのだが、問題はそれを支えていた人間たちであった。
西沢氏は、如月が解散し、今度は人づてに、海援隊の「才谷音楽事務所」にはいる、
当時は海援隊が「母に捧げるバラード」(1973)でヒットし、彼は海援隊のマネージャーとして
全国を飛び回るのであった。才谷という名前はいわずとしれた坂本竜馬の仮の名前。
この事務所はなくなったのか、どうもそのあたりはわからない、海援隊はヤングジャパンにいたことを
僕は記憶している。
二年半の月日を経て、事務所が分裂、再び、音楽舎に戻る、
彼らの事務所はガイタレの招聘事務所に変貌しており、この辺りの経緯は不明。
高石からできた事務所が、海外のBCRなどを日本によぶという。
ここまで、いろいろな事務所ができてはつぶれ、エレックの倒産など、音楽をするひとをきちんと
マネジメントするものが必要であったのだ、
外タレのタレントたちはそのあたりきちんとされていたのを西沢は学んでいた。
そんなとき、マジョ氏からオフコースカンパニーに誘いがあった。
いきなり面接もなしに仕事にでることとなり、
九州ツアーに向かう、
羽田のカウンターで初めて、小田和正にであう。

「今日からお世話になります、西沢です。ツアーにご同行させていただきます、
 よろしくおねがいします!」手短に挨拶した。

しかし、小田和正の反応は・・

「あ、そう!」
ちらっと、視線をおくり、そのまま違うほうを見た、

その反応に唖然としながら、なんというそっけないひとなんだ、と感じた。
しかし、それを対比して、鈴木康博は親しみやすく、照れ笑いしながら挨拶をした。

そして、ツアーの中で彼らオフコースの仕事振りを見て驚いたという。
オフコースは控え室の使い方を楽器を調整して置く場所と休憩スルレストルームと
分けてつかっていたという、当時はそういう使い方をするグループは日本にはいなかった。
海外の大物はすべてそうしていたのを西沢はしっていた。
それに照明スタッフや音響スタッフとの連携はスムーズできびきびをしていた。
ツアーの間でも小田との会話はほとんどなかった。

西沢氏は、当時いろいろと問題がおきていた権利問題や契約問題をきちんとするため
地方のイベンターとの「契約書」。メンバーの契約書などを作成していった。
 80年、春、そのまえの「さよなら」の大ヒット、LPの一位など、オフコースはブレークした。
ブレークすると、問題が多くでてくるのだが、西沢氏のおかげで抑えることができた。
しかし、もうひとり渉外のようなひとがひつよう・

以前から、オフコースをよく知っている、西沢氏を紹介した本人。
マジョ氏がオフコースカンパニーに入ったのだ。
最強のコンビがオフコースを支え、小田和正は社長業を励む必要がなくなった。

「インナードキュメント」旺文社 藤沢映子 を参考にというかほとんど・・
西沢さん、その後どうされているのだろうか、
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offcourse L O V E
1969-1989 offcourse was japan music bands,
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