1979年12月。
国道一号線、
1.5トンのトラック、マークは飛脚、
佐川急便の車の中、
眠そうな目をしながら、男は枚方から大阪に向かう深夜、
ラジオからは、ABCヤングリクエストがながれていた、
まじめなアナウンサーは、今週の一位を発表した、
「オフコース さよなら です。」
イントロがながれるなか、彼は驚いた声をあげた。
「ええ!!、あいつら、とうとう、やりおったんや、」
ラジオのボリュームをあげ、彼の目頭は熱くなった。
走馬灯のように、オフコースの売れない時代をおもいだす、もう、6年もまえになる、
関西に帰り、運転をしだして、もう、3年、
大阪生まれの彼の名前は、永田敏雄。
高校時代に、五つの赤い風船の楽器運びのアルバイトをはじめた。
友人の上野さんの紹介で音楽舎にはいり、杉田二郎さんの人柄に引かれて
上野氏とともに、サブ・ミュージックにはいる。
そこには、もうひとつ、学生のような、若い、オフコースがいた、
オフコースたちは、音楽が好きで、欲がなく、ひたすら楽器をいじり
曲をつくっていた、
このころ、永田氏はオフコースの担当マネージャーになった。
彼らの扱いにくさや、実力があるのに評価が低く
たとえば、CMの仕事でもひっぱりだこだが、
一本、一万円しかならなかった、
事務所の経費はかさみ、杉田二郎が家の仕事の関係で半年以上仕事が入らず
オフコースは、杉田のバックコーラスの仕事もなくなり、なんとか、
オフコースの仕事を見つけようと走り回り、
むりやり、ある歌手のバックコーラスの仕事を獲得し
オフコースたちにつげると、
「 ええー、僕たちの歌がうたえないんでしょ。」
そう、答えた、その仕事はいやだというのである、
永田は、切れた、
「おまえたちが何様のつもりなんだ!おれがどれだけこのしごとを
獲得してくるのに、毎日、挨拶に行って、もうええー。」
小田とすずきは、なぜ、彼が怒っているのかまだ、理解できてない様子であった、
運転しながら、オフコースのさよならをききながら、
売れないころのオフコースをおもいだした。
北海道、動新ホールであった、
幕をあげると、客席は13人しかはいっておらず、
袖で永田は、それでも何とか演奏するオフコースをみて、涙が止まらなかった。
いつか、うれるように、させたやる!
そう、こぶしを握りしめたが、
それでも、3人帰ろうとしていた、
オフコースがやっと、一位が獲得できたことを
一番よろこんだのは、永田だったろう。
再び、80年、音楽舎の仕事にもどり、
音楽の仕事をし出した、オフコースの関西の仕事は彼が
綿密にかけて、成功させた、
彼もまた、オフコースを支え、オフコースのことが好きになり、
青春をオフコースにささげたひとである。
大阪の居酒屋である会が開かれていた。
その店に入り、永田さんは店員に聞き、二階に大きな部屋にはいろうとした、
あまりにも多くの人間に彼は気後れし、帰ろうか、そう考えた。
場違いか?
そうおもっていたところ、
おくのほうにいた、鈴木と小田が永田さんに気がついた・・。
小田は声を上げた。
「はい!みんな、紹介するよ!ぼくらが駆け出しのころの初代マネージャーの永田君です!」
みんな珍しい人物をみるように拍手で迎え入れた・・。
鈴木が言った。
「ええーと、 ぼくに叱ってくれたのはお母さんと永田くんだけです・・!」
永田さんは四年ぶりのオフコースのメンバーを前にして顔をあからめながら
挨拶した。
彼はいろいろなことを思い出していた。
友人の上野博氏(まじょ)に誘われ、
北山修、加藤和彦、はしだのりひこなどが参加する、「音楽舎」にはいった・・。
クライマックスやジローズがどんどんヒットを出し、上野とともにマネジャーの仕事
に励んでいた。
永田氏のお名前を間違っていました、訂正のウエお詫び申し上げます。