ヤングタウン おおなべさん

ヤングタウンは、若者のオアシスであった。中学のころはほとんどの人が聞いていた、受験戦争、偏差値教育、あの頃は夜は深かった。静まり返った街、

おかんもおとんも疲れ切って12時前には寝る。夜中に電気を消して、スタンドだけつけて、自分専用のこたつに入り、睡魔と戦いながら勉強するのだ。と、いっても本来馬鹿な僕は、もしかすると、勉強するためにラジオを聴いていたのが、ラジオを聴くために勉強をしていたようなものであった。

中学のころは、成績も悪く、スポーツもできず、女の子にも相手にもされず、もんもんとしていた。ぼくの中学は格差社会の典型のような学校で、山手のほうには会社の社長や会長の息子や孫たち、浜のほうのぼくらは、貧乏人。山手の子供の夏休みはハワイ、ぼくらは新神戸大プール。昼の弁当は、山手の子はマツタケがはいり、僕の弁当はあるひ、おかんを相当怒らしたのだろう、あの日のおかずは、高野豆腐一枚であった。

そんな話はいいんです。

勉強しているふりをしていた中学時代、だんだんと面白くなってきた深夜放送。しかしながら、高校受験は落ちて、工業高校の電気科に入る。

中学を卒業し、そのままのペースで、深夜放送を聞きまくっていた。することはないので、中学の勉強の復習をしだした。

「なんだ、こんなこともわからなのか」時すでに遅し、ガラの悪い、不良がいる工業にはいった。不本意であった。

高校一年、入学してまず実力テストがあり、なんと、学年で一番になった。ぼくは嬉しかった。自分が賢いと勘違いした。そう、賢い奴はみんな別の高校にいったのだ。そこから、猛勉強を始めた。夜の9時から夜中の4時か3時まで、それを三年間続けていた。

まずは、ヤンタンが10時から始まる。月曜日、鶴瓶さんのヤンタンである。

ヤングタウンはあの時期の文化の一つであると僕は思う。

その基礎を作り、まとめあげたのが、おおなべさんである。渡辺さんという名前だが、二人いて、偉い方をおおなべさん、デレクターさんのほうをこなべさんとよんだ。

渡邉さんは2010年に75歳でお亡くなりになっています。

2005年には、ヤンタンについての回顧録『ヤンタンの時代』を発表した。

 

裏話になると、その時代のデレクターたちが書いていた原稿が多いそうですが、まとめていたのはおおなべさんである。鶴瓶さんを抜擢したり、明石家さんまを抜擢したり、その前は、三枝さんを人気者にしたのもヤンタンだった。ヤンタンにでると人気者になるという。ある種の登竜門のようなところがあった。

鶴瓶さんのヤン月は、すごかった、三分に一回の笑いをとるような過激な放送だった、やはり、仁鶴さんの影響が大きく、あのマシンガントークでやろうとしていた、しかも、若い鶴瓶さん。

ギャクベスト3というコーナーがあり、そのギャクが面白くどんどん過激になってゆくのだ。

そう、下ネタの方向で、

伊藤咲子のヒット曲 「いい子に会ったら どっき!」という歌がヒットした。

その替歌。「いい子に会ったら、・・・」 大爆笑である。もう、笑いが止まらない。

しかしだ、もう、このへんでやばいな、おおなべさんがストップをかける。

謹慎処分である、自主規制である。僕の記憶では二回、謹慎。

角さんが「きょうは、ある事情で鶴瓶はでません」

がっくりだ。

今の時代なら SNSで攻撃を受けて、くびになるところだが

反省をさせて、翌週から、しんみりとやるのだった。しかし、彼の笑いの虫はとどまることなく、ギャクをとばす。

鶴瓶さんのお気に入りは、山上たつひの漫画 ガキでかであった

「マンとヒヒのお尻!」「アフリカゾウがすき!」とか、叫ぶのだ。

腹を抱えて夜中に笑った。

しかしだ、僕が一番好きだったのは、「よもやま話」のコーナーであった。鶴瓶さんの子供時代から京都産業大学時代の話、その話が一番好きだった。

ぼくは、京都産業大学にいこう、と心に決めたのは、鶴瓶さんとその話だった。

あるときのことを僕はよく覚えている。

鶴瓶さんが、ヤンタンで、

「今日からはいままでのような放送でなく、しずかにやります」

マシンガントークとギャグオンパレードを辞めると宣言した。鬼首おりんさんは、聞きなおしていた。

あのとき、鶴瓶さんの一つ目の転機であったと思う。落語で言う、枕がおわったぞ、というものでしょうか

「よもやま話」のコーナーのおもいでは、おかあさんのクリスマスツリーの話。

駿河家は兄弟も多く、自営業でまずしく、長屋のひとまで、5人で暮らすのであった。

「なんで、うちには、クリスマスツリーがないんや!」学は、おかあさんに抗議した、

クリスマスイブの日。家に帰ると、おかあさんがタンスを上からすこしずつあけて、いろんな色の服をちらばせ

「まなぶ、クリスマスツリーやで!」と、みせた、学は、

「そんなもん、違うわ!」と、おこったという、でもこころのなかでは、うれしかったのだ、と、貧しくてもその気持ちだけは嬉しかったと、

鶴瓶さんが、人気者になり、両親に海外旅行をプレゼントした。キリストの聖地、エルサレムへの旅。おかあさんは、実はクリスチャンだった、

泣いて聖地に訪れたという。よもやま話では、そのへんは語っていないが、まずしくてもなんとか、楽しく生きていこうとする明るさが駿河家にはあったんだろう、だから、鶴瓶さんは人情ぶかく、人の気持ちがわかるのだ。

鶴瓶さんには其の後数々の転機が来る。そのたびに彼は前へ進むんだ。