哀しき紙芝居

1982年、鶴瓶さんは本を出された、当時はゴーストライナーが多いなか、自分は自分で書いた。と、いっていた。

 

当時は、鶴瓶さんの人気はラジオを中心にピークに達そうとしていた、このキャラ、オーバーオール、アフロ、眼鏡、

当初は眼鏡は黒縁だった。僕の憶測ですが、コーディネーターは玲子夫人ではないかと思います。

鶴瓶というタレント、その看板の半分は、実は玲子夫人なのであると僕は思います。玲子夫人は駿河学(本名)が20歳過ぎで松鶴師匠に入り、

玲子夫人はあの二年、きちんと大学を出て、きちんと、地元愛媛の信用金庫に就職します、文通や遠距離恋愛でふたりはがんばるのです。

であいから付き合いはじめ、結婚までを鶴瓶さんはその本で書かれている。

写真は娘の章子ちゃんと奥には太郎君。鶴瓶さんは、週に4回は、深夜放送で家を空ける、帰れば昼間寝てばかりだったか、売れっ子になって、子育てもひとりでたいへんだったろう。

鶴瓶さんが弟子入りのころ、励まし続けたのは玲子さんだった。鶴瓶という一つの看板を作り上げるには、並大抵な努力ではできない。しかも、どこのうまの骨かわからん若い男たちが弟子入りで家に来るのだ、これはもう大変なストレスに違いない。想像はできない。

鶴瓶さんはゆうたら、最初は貪欲であった、なんとかして仕事をゲットしよう、仕事を成功させよう、と、それは玲子夫人との結婚の第一の目的であったろう、

鶴瓶さんは、「スプーン曲げができる」そう吹聴した、なんと、松鶴師匠は騙されてしまい、あちこちで、言いふらしてしまった、

キャラクターと、顔を覚えてもらうためだろう。

「何々の、皆川修です」「落語界の笠置しづこです」なんとか、数秒でも笑いを狙う。

「鶴瓶話」というジャンルがいまでこそ、確立されたが、最初は、ヤングタウン月曜日の四方話のコーナーが起点であると僕は思う。

 

このころは、関西を中心にコンサートもされていた。ぼくは、京都大阪と何度もいった、あの頃はチケットも売り切れでなくて奥の方は開いていた。

京都のコンサートでは、感極まり、おかあさん、ありがとう、と泣いておられた、

 

上の記事は、英五とのであいと、コンサートをするようになったいきさつを書いている。大阪で英五と鶴瓶さんのジョインとコンサートがあり、

なんと、ぼくは、その日はその横の中ホールの谷山浩子のコンサートに行っていた。

いま、ぼくは、中居騒動のことで、いろいろ想う。鶴瓶さんもいうにいえない辛い思いをしてることだろう。

鶴瓶さんが、今も人気で、地位は不動で、さまざまなことを乗り越えてやれてこられたのは、一つには家庭という守るべきものがあったということ、

そして、この本にも書いてあるように、「鶴瓶話」が、いつか飽きられて、人気が無くなること、そういうことも常に想い、天狗にはならなかったこと、

過去の人気番組は、人気のあるうちにやめ、振り返らない、前に進むこと、

たとえば、このあとのほうにでてくる、パペポテレビ これが大ヒットした。このDVD発売を頑なに否定した。

もう、その番組は終わったのである、終わってからは遅いのである、次をいかないといけないのである、だからこそ、今があるのだと思う。

立ち止まっておられへん と、あるように

彼は芸能界を 哀しき紙芝居 であると、思っていたのだろう。哀しき 中居。元気出していきていけ

 続く 2025/01/25