ぬかるみの世界

「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、ラジオ大阪で1978年4月9日から1989年10月1日まで放送された深夜番組

ぼくが高校二年の春から始まった。これは聞かなければと思い、一回目から聴いた。録音もしていた。一回目のゲストが、当時人気の甲斐バンドの甲斐さんだった。しかし、新野先生と一発触発の喧嘩寸前までトークが・・。甲斐さんが音楽の演歌についてどうのこうのと語る、

「美空ひばりの歌があだ花的で・・」と発言。

あだ花 (徒花)とは、見かけは華やかであっても内容や結果を伴わない物事を指す言葉です。ビジネスシーンでは、徒花に実はならぬということわざや、見掛け倒し、水の泡、虚飾、虚栄などの類語。

当時は、美空ひばりといえば大スターであり、決して、あだ花ではなかった。あだ花的といったのかもしれないが、

当時は、まだ演歌の力は強く、紅白でも半分以上は演歌のひとびとであり、舞台や台本を書いていた新野先生にしてみれば、自分を汚されたようで怒り心頭であった。鶴瓶さんはその権幕におどろき、新野先生がスタジオの机の上の灰皿を投げつけるのではないかと、恐れた、後日の放送で述べていた。

一発目から波乱を含んだ放送であった、新野先生をあまりしらなかったが、この番組はきっと面白くなると毎週欠かさず聞こうとこころにきめた。

二年後に、なんと、美空ひばりさんがゲストでこられ、若いころの苦労話をされる。

僕は完全なるおばんのどっぷりぬかるみんであったが、大学二年ごろから、日曜の夜にバイトを入れ始め、1983年ごろには卒業してしまった。

一回でも聞き逃すと、何の話をしているのか、ついていけないのであった。高校三年のとき、友人の糸瀬と、卒業旅行にいこう、ということになり、日曜日をはさんだので、わざわざ、クーガーに電池を入れて、必死で名古屋の宿で聞いていたのを思い出す。

当時は、ソ連とアメリカとの冷戦構造。核戦争の危機があった。203高地という戦争映画できて、さだまさしさんの歌が批判をあびたり、復活の日という映画があったりした、戦争が起きたらどうするか、ということで、二人はうだうだ話すのであった。

やはり、この番組はリスナーの投稿がすべてであった。聴いてる人が、面白いのである。発想も奇抜で、面白いのである。

鶴瓶さんは何千通とくる封書、しかも、長い、それを土曜日の夜に西梅田のOBCに取に行き、一晩中かけて、徹夜で読むのである・

続く

2025/01/23

ぬかるみの世界 の本は数冊出ているが パートワンがでたのが

1981年、この時は発売すぐ売り切れで、相当なヒットとなった、サイン会も行われ、相当な人々が並んだ。


第一回 ティーチイン、1978年11月ごろ、ぼくも抽選に選ばれて参加したが、高校生なので発言する度胸はなかった、場所は阪急の出来たばかりの

阪急ファイブオレンジルームだった。そのときは、戦争が起きたらどうするかなどの話が合ったと思う。鶴瓶師匠は、嬉しそうだった。なんせ、ラジオは相手があってこそ、どんな人が聞いてるか、聴いてないかわからない、触れ合うことがなかなかできない。鶴瓶師匠のファンを大事にする姿勢は、他のタレントには絶対できないものであり、ラジオの起点から始まったと思う。マイクに向かって話すのでなくて、聴いてる人をイメージして話すのだ。

ティーチインは1984年まで10回も続いた。

 新世界パニック

新世界パニック 1980年5月10日土曜日 「新世界に一度来てください」という女子高生からのはがきに誘われ、行われた企画。しかし5000人という予想外の人数が集まり、とてもツアーどころではなくなったため、鶴瓶と新野は機動隊と共に大阪市立美術館前広場へ移動し、急遽集まったリスナーを前にしてのトークショーに変更された。

翌朝、朝日新聞の記事にも出て驚いたことを覚えている。新世界は狭い街なので人が多すぎて危険であると

警備もなしでそれほどくるとはおもわず、大阪府警機動隊が出てくるようにまでなった。写真のように

隣接する天王寺公園にみんな移動してもらい、パニックを抑えた。おそらく、がんさんは始末書を書いたであろう。けが人がでていれば、そこで番組は終わったに違いない。

写真 事故を防ぐため 誘導する鶴瓶師匠 よくみると 前のほうに警官が10人ほど動いている、デモ活動と思われたのであろうか、