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114. 中田三恵さんに捧げる01


SNS で かつての齋藤さんと再会したことから始った。

2021年5月、世の中はコロナで大変なこととなっている。お世話になった、思い出深き佃のランチフロアーの中田さんのついての記事

このページもなかなか終わりません、
読むひともいるかいないかわかりませんが、えんえん、続けてゆくことでしょう、
ただ、記憶がどこまでもつか、そこが問題ですが。フェイスブックで、あの人どうしてるんだろう、と思って、よく探す。
そんななか、絶大なる持て男。齋藤さんと再び会うことが出来た
。チャットで懐かし話をしていると、どうしても再び会いたい男として、伝説の男、森安さんの話が出た。記憶の頼りにネットで探して、齋藤さんが手紙を出してくれて、成功した。
気をよくして、お互い世話になった、佃の
中田さんにあいたい!
ということになり、再び、記憶の中を呼び起こし、住所と電話を探し出し、再び、齋藤さんが電話凸。しかしだ、しかしだ、ぼくらの気持ちとは裏腹に
2000年前後に、病で亡くなられたとご主人が、
なんともぼくはいい知れない寂しさを憶えた。そんな、中田さんの思い出を綴りたい。
 ぼくは22歳の頃で、大学を出て、一年もなってなかった。あちこちヘルプ回りをして、
ランチ営業もしらず、研修もしてもらえず、ひたすらナイトのキッチンワーカーであった。
そんな中、地区担当吉澤さんに、お願いした。
「おなじ店ですこし勉強させてください」
それで、佃に決まった。
みんなに丁寧に挨拶をした、同期のなかのいい、西川もいて、安心だった。
2番手は西宮からきた、齋藤さん、
中のさん、吉田君、ぼく、にしかわ、齋藤さん、そしてごうてん、
6人も社員がいた。ほんと、いまは、すべて店長1人しかいないという店がおおいのでオまとまっては驚きだ。
ランチはフロアーはオープンメンバーが辞めずに残っていて
久保さん、色っぽい今庄さん、そして、中田さんがいた。
キッチンは定着しておらず、いつも欠員のようだった。山本雅さん、とあと2人か
そして、キッチンは社員がメイン。
工業地帯の真ん中なので、昼時は工場の人と、2号線をゆききするひとで必ず満席。本日のランチは50は軽く出ていた。
まだ、フロアーが出来ない僕は、ひたすらキッチンだった。なんせ、家から2時間はかかる距離だったので、かえるのもくるのも、大変だった。
ぼくのことを、おささんとよび、よくみんなで、あまのほうに飲みに行った。
中田さんの家は直ぐ近くのマンションで、娘さんは小学生、おばあさんと同居されていた。家にもごはんをたべにおいでといって呼んでくれた、そのまま、齋藤さんと酒飲んで
リビングで泊まることもあった。
あるとき、ささいなことで、他の社員と言い合いとなり、大げんかになった。
たしか、山本雅さんが踊りのなんかで休みたいので休めないというので
ぼくが休みだったので代わりに出ようとしたら、その社員が怒り出して
「でてこんでいい”!」と、喧嘩になった。
まあ、彼は喧嘩がはやかったので、まあ。短気だったのだが
雅さんが泣いて止めて、収まった、
もやもやが、残る中、中田さんが話を聞いて、ぼくら2人を飲みに連れて行き、
仲をもってくれた、ごうてんはわらってるだけだったが、中田さんはきちんと
お互いのことを思い、仲直りさせにきた、それ以来は仲良く仕事した、
話はそれるけど、喧嘩したあいての福西くんは、僕の少し前に入社し、
同期で店長になり、そのご退職し、交通事故で亡くなったと聞いた。
ことあるごとに、元気が無くなる僕は、中田さんに何度も励まされ、
「どうしても、金庫のダイヤルが合わないんですよ」
と、一言いったもんなら日曜日のトップのぼくのところに朝6時ころきて
「ほら、おささん、あいたで、金庫!」といってわざわざ、来てくれて
眠そうな目をして笑っていた。
続きます。

 
 
このページは個人の思い出の話であり、現会社とは一切関係がありません、

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