伊丹桜台店のヘルプの話・・。

実はぼくは入社前に半年プレ入社でバイトを京都で経験していたのだ。
キッチンの半分ぐらいしかしらなかったが、

当時のスカイラークのキッチンは「コックレスキッチン化」を目指し、
専門のコックをすべて追放しており、社員がホールと兼用しながらおこなうことにより
人件費の削減を行っていた。
ステーキハンバーグエリア
ピザフライレンジエリア
サラダエリア
バックエリア
洗い場エリア
Dポジションに分かれていて、
それを会得してゆくのである。プレ入社である程度のワーカーをして
作業指示やDポジション以外はできるようになっていた。

京都の店で半年480円でバイトをし、
3/31まで、4/1から東京の入社式と研修にでて
そのあとは西宮店で研修、GWは森安店長(通称もりてん)の店でヘルプを行い
その後は、西宮にもどり、すぐに伊丹桜台というみせに再び異動となった、
めまぐるしく変化していた。
西宮では、たくさんの社員がいて、研修教育店であるが、店長はまったく
キッチンに入らず、副店の阪野さんがトレーナーになった。
しかし、西宮はひどい店だった、躾というものがまったくなってない、
言葉遣いがなっていなかった・・。

「おーい、ひやたんとってくれえ=!」
それを言うのは高校女子のバイト、ぼくはもう頭にきていた。
作業ができたので、もうひとりの同期の井上はラインで研修し、
大概は洗い場に追いやられた、当時、トレンチ方式という洗い場の方式をかえ
しかも、フォークやナイフなどをキッチンで吹き上げるという
作業としてはかなり無理のあることをしていた、
108名の客席で慢性的に満席、あらいものは相当なもの、
ずぶぬれになりながら、しかも、手は荒れ放題、何回も皮がむけ
「なんで、おれ、こんなことしてるのだろう・・」
自問自答しながら、洗い場をする。
大学の4年のとき、友人のたのいの言葉が頭の中をよぎる

「なんで、だいがくでて、皿洗いせなあかんのや・・」

「おーい。ひやたんだしてなあ!」

僕は頭にきて、グラスを蹴飛ばした、本当に頭にきていた。

トレーナーの阪野さんがあとで、ぼくを呼んだ。

「なんで、さっき怒っていたんだ・」
「あ、すいません、」
「怒ってはいけないぞ、」

そういわれても、ぼくのなかのちっぽけな
プライドというのは傷ついていた、

大学の友人たちはネクタイを締めて通勤電車にのり
会社というところにいって、ぼくは、なんぜ、こうも
毎日毎日、洗い場なんだ・・。

伊丹桜台店に異動を伝えられた。

家から(神戸)かなり離れた店だった。
しかし、西宮店どころではないきびしさがそこにはあった。

店長はOさんというひとで
同じ大学の先輩、しかも、店長に同期で一番早くなり、
きびしいひとで有名だった。

「学生気分は忘れるように・・」
このことばだけ、最初にずきんときた、学生気分って、なんなのか、
それさえもわからなかった。

マニュアルを書き写し、通信教育のすかいらーくビジネススクールをおこない、
なんとか、時間帯責任者としてモンク言われないように
一人前になるように、それが当面の目標だった。

大学のときからのガールフレンドがいた。でもまだ、
公休はきちんともらえ、残業もそんなになかった。
なんとか、相手も学生で平日にあうことはできていた・・。

その店は三人体制のみせで、要するに
10-2の年中無休の店を店長とあと社員が二人で運営する。
ポイントは平日のランチが営業が主婦で運営できて社員が一人で営業できるかどうか
あとの社員が遅番で夜ノディナータイムは社員が交差するので
二人で営業し、深夜は社員とバイトで営業するパターン。
だから、社員はフロアーもキッチンもできないといけない。
ぼくは入社二ヶ月でろくに研修もうけていないキッチンだけで
その店では、ほとんど遅番にほうりこままれて、
日曜と祭日は12-9であった、完璧なワーカーラインであった。
マネジメント教育もくそもなく、ひたすら、バイトの仕事であった。

その店は夏場が極端に売り上げ客数ともあがり、
当時は、山陽道もなく、帰省するには必ず、車では
中国縦貫をつかい、その入り口の宝塚インターがすぐちかくにあった。
朝から晩までひっきりしなしに忙しくなる店だった。

O店長はきびしいくせに、教育的な指導はなかったと記憶する
要するに、怒るだけであった。
右も左もわからない人間に怒るだけ、
思い出すのは、最初の土曜日、。
デシャップ(料理を出す責任のひと)をやらされたことです、
もう、右も左もわからないまま、一期ラッシュになり、
最初のオーダーが
「オーダーです!テルミドール4つ、えびドリアが2」
もう30年近い前のことでも鮮明に覚えている。
ピフレの高校生の男の子が、もうそれで、パンク。
パンクして当然です、そのテルミドールはまずは電子レンジ加熱が6分30秒
それが4つですから、26分の間、電子レンジが埋まる、
しかも、レンジ加熱のあと、エダムチーズを振ってオーブンで焼きあがる、

「3-4料理請求です!」
「提供時間20分です!」

もう、どんどん料理が遅れてくる、客席はみんな僕を見ている。
料理バックの大学生は、もう運びたくない、と言い出して、
もう、パンク、頭は真っ白。

「おまえ、洗い場でもいっておけ!」
社員の今ずさんが登場し、なぜか、みんなきびきび動き出し
料理はずんずん出てゆく・・。

土曜日、日曜日になるたびに憂鬱だった、
家に寝ているときも
うなされる始末。

バイトの準社員たちも、まったくぼくの言うことを聞かない。
店長は怒ってばかり、怒る数を数えていたら
一日36回も怒鳴られたことがおぼえている。

要するに、怒鳴られて怒られても、仕事が覚えられるわけもなく、
ひたすらやるしかなかった、店にゆくのが本当に嫌な嫌な毎日だった。

そんなとき、西宮に残っていた同期の藤田が退職した。
「ぼくが考えていた仕事とはまったくちがっていたんだ」
ぼそり、とつぶやいた、彼は法政大学をでた、エリートで人事部は残念
がっていたという。
辞めたおおきな理由は、深夜のフロアーの嫌なヤンキーのバイトのことば
だった。
トレーナーのIさんはろくに研修もせず、バイトと仕事をさせていた
そのバイトが、つまらないことで藤田に怒ったという。

「ナフキンをもっと、つめとかないと、なくなるやろ”前にもいうたやろ!」
しかし、藤田はフローアーマニュアルで
お客様が取りやすいように小指ひとつはいるくらいにテーブルナフキンを
補充する、を守ってやっていたのだ。

藤田にしてみれば、相談すべき社員もいず、
フォローするひともいず、決断したようだ、
後にそのバイトは三国で深夜をし、西宮でも深夜をしながら
金庫の現金盗難事件があったあと、姿を消した。
盗難事件があって、そのときの店長は自主的に責任を取っていた。

売れに売れていたときはずさんなマネジメントをやっていたし
店長も若い人が多く、いい加減なところがおおかった。

準社員たちのひねくれたところ、素直でないところ
そういうのを西宮でも桜台でも感じていた。
なんで、そうなるのか?僕は疑問だった。
新入社員の最初の洗礼は、そういうことにもまれることに耐えることであった。

しかし、ぼくは料理がでなかった。
出せなかった。提供時間は15分が目標であったが、50%を切るのが
普通だった。

その店にも、古い古い準社員がいた、仕事ができるバイトは社員からたよりにされてる
部分、甘やかされてる部分も多かった。
ぼくの作業指示をまったく聞かないのであった。
たとえば、補充をしてください、というと、洗い場にゆき。
洗い場へゆけ、というとスタンバイをしだす。

影であからさまに批判をしていた。

とうとう、ぼくは頭にきて、切れた。

「おまえら、勝手にやれよ!こんな仕事もうできるかい!」
そう怒鳴って、キッチンを出た、キッチンは一瞬こうりつき、
あわてて、社員がキッチンに入ってきた。
ぼくは、網戸を蹴飛ばしバックヤードにでて、屋根裏にでて
寝転んだ、

「ああ、もう、辞めよう、もう、こんな仕事は辞めよう・・」
そう思いながら、空を見ていた。

何時間かたった。

もう、ドウでもいい気分だった。O店長が僕を探し
僕とそのくせのアルバイトをつれてきた、

「おまえら、二人で話をしてくれ・・」そういって去っていった。

「ぼくはなあ、仕事がまだできひんけど、なんで反抗ばっかりするんや、
会社に入って、ここにきて、仕事するようにいわれてきてるんや、
指示が間違っているのならそういってくれ、でも、君の態度はおかしいぞ!」

あいては、しんみりとすいません、というだけであった。
僕だけがむなしく饒舌に話しても、なにか、むなしかった。

店長にあやまりにゆき、言うだけいったんですっとし、
今度なんかあったら、辞めるつもりでぶつかろうと、思った。

しかし、それから、すごく素直になった。
不思議と、どんどん料理がではじめて、吉沢スーパーバイザーも
「ななんか、よくなったなあ」と褒めてくれた。

O店長が、それから少したってから、ぼくに話しかけてきた。

「あの、ぶんちゃんな、(くせのあるバイト)何回も何回も
すかいらーくの社員の試験、受けるねんけど、落ちるんや・・」
「ええ、なんでですか!あんなに意識の高いのはいません!」
「なんでもな、クレペリンであかんそうや・・」

ぼくは、その話を聞いて愕然とした、
僕への反抗的な態度の根本はそこにあったのか、
社員になりたくてもなれないやつ、
社員になってもすぐに辞めるやつ。矛盾するものを感じた。

秋になり、なんとか料理を出せるようになり、
指示もだせてゆくようになった、
控え室に入ろうとしたとたん。

女の子とO店長の話が聞こえてきた。
「長谷さん、ずっと、いるんですか?」
「いや、もうすぐ、異動するよ・・」

ぼくは、驚いた。
なんで、僕にさきに言わないでバイトにいうのか、
モチベーションが下がりまくり、

「あのな、今度は大阪の佃店に10/1から行ってくれ、そのまえに
挨拶いっておけよ!」
それでおわりだった。

入社した年は研修という名のワーカーであった。
もめにもめたバイトは、そのご、違うファミレスに就職したという。

さまざまな顰蹙と総すかんをくらいながら、伊丹桜台を去った僕は
5年後、再び、伊丹瑞穂の店長として伊丹カムバックを果たす。

5年後だ、
新しい店で電話が鳴った。
取り次いでくれたのはランチのひとだった。
「昔、桜台の深夜のキッチンでパートで働いていたまるまるというひとが
店長になれてよかったね、がんばったね!、という電話がありましたよ!」
そういう電話がかかってきた、
うれしく思ってくれたのだ、心に留めた、
あのとき、辞めていれば、全部なかったことだ。

そひて、忘れもしないすごい店、大阪佃店への激務がはじまった。つぎへ





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