大阪佃店の思い出・・。
今はなきすかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。
UPDATE 2012年8月2日
修正2019/01/24

伊丹の店を去るとき、O店長がぼくにこういった。
「まじめにやりさえすれば、いつか報われる、だから、がんばれ」
O店長は同期で(関西二期)のなかで最初に店長になったひとだ、
関西は当時、出店はおそくなっていて、中京への出店、九州への上陸を果たし
関西は店ができなかった、店ができるか、誰か辞めるか、誰か本部にゆくか、
それらがないと、なかなか店長になれないのだ。
関西では一期生がすぐに店長になったものの、二期生は4.5年かかっていた。
O店長が副店のときにオープンさせたのが、その佃の店だった。
よくよく考えると、ああいう立地をよく見つけたものだと感心する。
オープンしてからではないと繁盛するかどうかわからないのだ、
国道二号線の佃島といわれる古い町で、小さな工場がひしめき合う、
大阪の端の下町のところであった、工場のばい煙がひどく、
喘息患者が多く、がらのよくないところだった、
しかし、当時は10-5の店で、日祭は100万前後売っており、年商は2億5000万はあったのではないだろうか、
いまや、ファミレスは衰退し、あのデニーズでさえ平均一億を切る。
社員は5人。
研修店舗であり、同期の西川、吉田、と竹田が仕事をしていた。
竹田ははやばやと、異動し、西川と吉田がのこり、
一年先輩の中の、副店の斉藤さん、そして、合田店長がいた。
合田さんは、変わったばかりらしく、オープンの松下さんは異動していた。
合田さんは、関西一期のいわくつきのひとだった。
宝塚のすかいらーくがだめになり、そこがイエスタディにかわった。
料理粗りがひどく、なにしろ、利益が出ないので問題となったのだ
準社員のお持ち帰り、不正が蔓延していたといういわさ、
そのあと、はずされ、西宮越水に異動、ここも人がどんどんやめてゆき
店が崩壊してしまった。
そのあとの建て直しがたいへんで、森安店長が三国から異動してがんばっていた。
そして、店長を降格となり、三国で頭を冷やせ、ということで、
それから、佃に赴任されていたのだ。
思いつきは天才的で、いいことをどんどん思いつき、
人にはやさしく、バイトたちを楽しませるのは天才的であった。
忘年会というものを全従業員でやり、すべての人間が参加するために
わざわざ、二日間やり、しかも長時間おこなうという念のいれよう、
スケジュールを考えると、到底無理な話であるが、
それから、春休みになると、全校高校生学生バイトをポートピアランドに
連れてゆくという、しかも自分は参加せずに、ぼくを引率者として
これも二日間実施し、二日ともぼくは参加したのをおもいだす。
そういうイベントをおこなうと、実に融和した雰囲気になり、時間帯を超えて
フロアーキッチンを越えて仲良くなるのだ、団結する力も強くなる。

ぼくはこの手法を学び、広島四国などの店でも何度かおこなった。
若いうちしかできない、

当時は、早くフロアーにでて、総合研修をおこないたい、
M といわれる称号がほしいのであった、
キッチンしかできない、というと馬鹿にされるのである、
M というのはフロアーもキッチンもできる、
マネジメントとのMで、よく、中野さんがえらそうにいっていたのを
思い出す。

ランチが忙しい店だった。
本日のランチ(ほんらん)が50は出る店で、ランチスープの10L寸胴は
三本は出る店だった、まあ、梅田のしんてんのときは6本も出て驚いたが
しかしながら、ぼくは入社以来9ヶ月を経ても
ランチをしらないのであった。
ナイトに固定シフトであったので、まあ、既存点の桜台は
ランチはメンバーがそろっていたので、入るひまがない。
まあ、教えるつもりが毛頭なかったのであろう。

仕事は自分で覚える、

そういうのが当たり前であった、だから、おぼえのいいものはできるが
しないものはぜんぜんできないのである、

ランチスープの作り方を覚え、マニュアルどうりに作った。
しかし、フロアーのひとは、辛いという。
しかし、東京からたまたま来ていたサラリーマンは

「ああ、この味、いつもこれならいいのに・・」
とつぶやいていたのを聞いたのだ、
ぼくは、あ、そうか、関西と東京の味は違うのだ、
マニュアルはそういうものか・・。と妙になっとく、
意見書に書いて本部に書いても、抹殺。

そういえば、ランチのおばちゃんたちはかってに
自分たちで味を変えていたのだ。

しかし、佃のランチは崩壊寸前であった、
フロアーは4人、オープンメンバーが残っていたが
キッチンが不安定であった。
「子供が病気なのでやすませてほしい・・」
この連続であった、ランチは必然的に研修生のメインラインとなっていたんで
逆にリーダー不在で定着しなかったのだろう、

それと、仲が悪いのであった。
仕事はよくするYさんがいて、フロアーモキッチンもして、しかも、夜もでてきて
日曜日もでてきて、ワースケの穴をいつも埋めてくれる重宝するひとで
ぼくにはとてもいいひとだった、
が、みんな嫌いだというのだ。
嫌味をいったり、乱雑であったり、するのだという、
しかし、よく働くのであった。

ランチは欠員、しかも、どんどん忙しくなる、
5時店でMは三人、片方しかできないのが三人もいて
まあ、今考えると贅沢なはなしであるが、
常に人手不足の状態であった。

しかし、なかなか、ごうてんは手を打たない。
問題の優先順位が高いものをいつも見過ごすのであった、
業を煮やしたぼくは、自らチラシを配ることにして、団地などいれに
いった。何人か採用でき、
ごうてんは喜んでいた・


ある夜のことである、たまたま、食材が切れて三国店に借り物にゆくことになった。
夜11時杉のことである、

帰ってくると、店の電気はすべて消えており、客席は散乱し
吉田社員が呆然としていた・・
「店長が殴られて救急車で運ばれたんや。。」

ええ!

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