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115. 中田三恵さんに捧げる 2


お世話になった中田さんの思い出を綴る そのに

まだまだ、世間も世界も社会もしらない、大学を出てわけのわけらないところで頑張ろうとしていたあのころ、ぼくをぼくらを応援してくれていた中田さん。

ごうてんの店は、なぜか、ひとが辞めてゆく。オープンメンバーのフロアーの二人は中田さんを除いて辞めていった。
ぼくは訳がわからず、なんで辞めるのですか?と聞くと、店長が約束をまもらないからという。なんのことがわからず中田さんにいうと、わたしもな、あれ嫌いなんや、といった。あれとは雅さんだった。

忘年会。上右から二人目が中田さん
1984年頃
ランチは必ず満席喰らうのに、中田さんと新人のくきさんだけとなった、キッチンは弱く、社員は料理を出さないといけない。ぼくは、ラストなのに勝手に出てきてヘルプし
突然フォローし、突然帰るようなことをしだした。ごうてんは意固地なところとプライドも高いのか、ワースケのあなも放置していた。でも、ぼくも、このあと何年かたち、店長になり、何年かして、意固地にもなり、人の意見も聞かなくなる、ようなことは起きる。
まあ、一番悪いのは批判ばかりしていた、齋藤さんが移動した後のいますさんだったとおもう。
そんなこんなで、なんとかM(フロアーキッチン)出来るようになり。
丸さんから何度もしばかれながら、つぎの店三宮に異動することになった。
三宮に行ってから、数ヶ月のち、佃のもりちゃんから電話あり、
「中田さんが辞めて東京にいくから、送別会するから今日いまからこい」という。
そして、尼崎で、もりちゃんと北村くんとぼくとで三人、送別会をした。
なんとも言い様がなかった。寂しい思いがした。
その後、中田さんは、板橋のほうに旦那さんと住み、板橋のすかいらーくに三年
勤め、また、それから佃に帰ってきた。
 そして、それから何年たったろうか、
ぼくが広島五日市店でアイドルタイム、ひとりでフロアーにいると
電話がかかってきた。
「そちらの店に、齋藤さんという社員はいますか?」声を聞いただけで思い出した。
『中田さんでしょ!ぼくですよ、ぼく、齋藤さんは隣の店でいますよ!!」
驚いた。
ぼくらを思い出して、電話してくれたんだ。
そうえいば、ある年の大晦日。齋藤さんは実は彼女がいて
年末年始あいたいけど、会えない。
それで、どうしても大晦日の夜に電話して声が聞きたい。
わざわざ、中田さんを呼び出して、友達のふりをして、電話して呼び出してもらっていた。
そのはなしをしたら、齋藤さんは全く憶えてなかった。
 それから、またまた数年後、ぼくは、伊丹瑞穂店にいた。オープンしてまだ二ヶ月足らず。そこに電話がかかってきて、中田さんだった。
佃にいた、石川くんと、きよちゃんが結婚するから、その二次会にこないか、という電話だった。ヘルプ貰ってるくらいだから、いけないと、残念だけど、断った。
そして、数年経ち。1998年の夏まえ、
すかいらーくの人事制度が変る説明会に参加するために、阪神電車にのり、
梅田に向かった。特急が先に着き、とぼとぼと改札口に向かって歩いていた。
そこに各停普通電車がついて、ぱらぱらと人がおり、
階段でなぜか、後ろを振るかえると、
「おささん、ちゃうの?」
中田さんだった。中田さんの子供とお母さんもいた、あのとき小学校だったこも
大きくなっていた。
「ひさしぶりやね、」
「はい、元気でなんとかやってます」
「齋藤さんも元気?」
「いま、たぶん、静岡のほうだとおもうけど、どこか知りません」
「そうか、みんな、えらくなったんやろうね・・」
「いやいや、ぼくはぜんぜん偉くないです、体がえらいだけ・・」
そこで、いま思い出すと、中田さんは、がんになったと、さらっと、言った。
ぼくは、まさか、そんなにひどいとは思わず、いつかまた会えるだろうと思った。
そのころは、店は大変だし、結婚するのんでたいへんだったし、
余裕がなかった。
その後、また悪化して亡くなったんだろうか。
ことあるごとに、であい、わかれ、不思議なクロスだった。
あのとき、お世話になりました。
と、言いたくても言えない。また、尼崎に飲みに行こうも、いえない。


齋藤さんと中田さんの墓まいりの約束をした。

ほんと、心から言いたい。中田三恵さん、ありがとうございました。
あなたのおかげで、なんとかやっていました。

2021/05/06 14:51
   
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