今はなきすかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。
UPDATE 2012年2月9日 17:24:28補足2012年7月19日 加筆 2012年7月23日
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入社前の会社案内から・・。
この当時は二部上場寸前で、店数も300店いくかどうか・。関西から中京に出店、九州はまだ先の話・・。


外食産業はこれからのびる、そういわれていたあのころ、
すかいらーく、ロイヤルホスト デニーズ、さまざまチェーンがあった。

ぼくらが4回のとき、1983年も円高不況が続いていました。

3回のおわりころか、就職部の「就職ガイダンス」がはじまり、

みんなで、大教室で話を聞きにいった。

下宿の前のポストにははいりきらない、でかいでかい本が届きだす、

何冊も何冊も、

リクルートからくる、就職の案内のようなほんだ、

あれらをみるたび、ああ、4回になるとたいへんだなー。とおもったものだ。

「おい、こないだの適性テストの結果はどうだった?」

「はてしなく、小さいまるだよ、何の興味も適正もない」

「ぼくははてしなくでかい、丸、何をするかわからない」

どんな業種に絞り込むか、どういう仕事がいいか、

考えるだけで悩むものだ。

「とりあえず、資料請求して、しまくって、それで決めよう」

「会社説明会、参加することに意義がある」

「いや、そのまえに、考えないとな・・」

「しかし、同志社の友人のとこの求人は、ぜんぜんちがう、聞いたところばっか」

「うちの大学の求人、知らないところばっか、中小企業か、車のセールスか

こないだなんか、リゾート開発のひつこいところがあって、

何回も何回も電話あるんだよ、説明会にこい、ってさ・・」

「おまえは、田舎かえるんだろ」

「そうだよ、帰らないといけない、でも、田舎には会社すくないんだ・・」

下宿で友人の清水と話していた。

「もう、内定もらったやついるらしいよ」

「優の数から推薦がはいるらしい・・」

「はあ、優の数もないし、部活動はだめだし、つぶしのきかない学部だし

コネもないし・・お先真っ暗だなあ・・」

「ばかやろう!コネなんてつかったら、あとあとしんどいぞ、

それよりも、自分たちで小さな会社にはいり、おおきくする気持ちでやるんだよ!」

「そうだな、ハングリーでいかないとな・・」

「実際に、腹も減ってるしな・・」

7月くらいから、動き始め、夏が勝負といわれた、


実際は10月いっぴの内定式できまるのだが・・。

男女雇用均等法が施行されたのもあのころだ、

しかしながら、それは名ばかりで女性には短大を卒業し25で結婚

というのが常識とされていた、4年制の大学に行く女子はかなりの不利であった。。

しかも、自宅通学者、浪人、留年は採用しないという企業がおおかった、

ある意味、これは偏見差別であり、このなかで活動し就職活動しようとする女子は

かなり過酷であった。

就職部資料室はいつも満員であった。

学科の女子も資料を広げノートに書き写していた。

「女子の先輩の資料、ぜんぜんないねん・・」

「そうか、たいへんやなあ。。」

「長谷くんは業種をしぼったの?」

「おれか、まあな、適当に絞った・・」

そういいながら、手を止めて

耳打ちした、

「あの奥のほうに座る男のひと、あのひと、もう内定3つももらったんだって・・」

「三つももらったあ!」

「声がおおきいの!」

「そんなに内定たくさんもらって、どうすんだよ、どの会社の人事にもいい顔して

ゆくゆく、というんだろう・・」

「そこが、かけひきなのよ・・」

「かけひきなんておれにはできないよ・・」

そういいながら、資料をさがし、ファイルを取り出した。

「外食産業か、アパレルか、広告代理店か、メーカーか、」

「ぜんぜん、しぼってないね・・」

「そういえば、そう・・表の求人票みた?」

「みたみた、あんまりめぼしいのがないね・・」

ぼくは、いろいろな会社に資料請求して、

返事を来るのをまち、そこから会社説明会の日取りを洗い出していた、

会社説明会というのは大嘘で、ほとんどは、選抜をしていい学生を

集めようとしていた。説明会は朝10時から11時までであるものが、夕刻まで返されないことが

あった。

「ああ、やだやだ、人身売買みたいなかんじもしないか?」

「そうだな、それよりも自分をよくみせようと、するのが実にみっともないね・・」

第三食堂で、清水と安いB定を食いながら、話をしていた。

「もうな、学生生活を振り返って、なんもないな・・」

「誇れるものはなんもない。。」

そういいながら、1年生がまじめそうに講義の本を読んでる姿をみた。

「ああ、もうやだあ、ずっと、一回生でいたいよな・・」

「それより、おまえは卒業できるのか?」

「ああ、絶対するよ」

「保健体育が心配だよな、再再再再履修のな・・」

「ははは!大丈夫、ノートは完璧、抜けたとこは、1回の女の子にコピー

させてもらったんだよ!」

そういいながら、二部ひろげ、清水に一部わたした。

「かたじけない・・」

「そうだ、こんどコピーの三田の企業説明会にゆくよ」

「あ、そうか、質問がんばれよ、」

「まあ、これは慣れる準備段階、ためしに、というやつさ」

次の週、国鉄玉造駅をおり、駅前のその会社に向かった。

かなりの人数がきており、説明会用のパンフをもらい、受付のかわいいおねさんの

前にゆくと、

「理系のかたはこちら、大学名別にリストがありますので、そちらに記入してください」

「私立の文系のかたで、大学のリストにない学生のかたはこちらの部屋におはいりください」

内心、でたよ、これが差別というやつか、そう思いつつ大きな部屋にはいった、

ぎっしりと、学生が座り、

まえのホワイトボードの前に人事の人らしき人が説明をはじめた・・。

「これで、一応、説明はおわりますが、質問を受け付けたいと思います」担当者が

終わるや否や。挙手が大きな声とともにあがる・・。

「それでは前列のきみ、どうぞ・・」

「はい、京都産業大学法学部の何々と申しますが、御社の・・・」

「はい、元気な質問ありがとうございます、当社といたしましては。。。」

説明がおわり、

「はい、次の質問をどうぞ!」

「はい」君どうぞ、

「はい、ありがとうございます、京都産業大学経営学部の・・・・・」

はいつぎどうぞ、4人目も僕らの大学であった、ぼくが驚いていたのだが

驚いたのは、人事のひとで

「今日はほかの大学の方はいないのですか?京都産業大学以外の方の質問?」

もうぼくも唖然としていた、あの元気とPRは訓練された賜物であろうか、

単なる空元気であろうか・・。

帰りのエレベーターで乗り合わせた学生と話をした、

「もう、何社まわった?」

ぼくは、

「いや、これがはじめて・・」

「ぼくはもう10社もまわったよ・・」

「どこの大学?おれは甲南」

「ぼくは京都産業大学・・」

「しかし、すごいね、オタクの大学は、どこへいっても最前にすわり、質問をする」

「ああ、あれね、ぼくはおとなしいから・・」

「どういう業種?メーカー?」

「まだ、絞りきってないんだ・・」

「業種でしぼったほうが、ある程度の会社の知識ができて、やる気があるように

見えるしな・・」

「そうか、まあ、お互いがんばろうな・・」

「また、あうだろうかな・・」

そういつつ、大阪の町へ消えていった、

母親が心配して下宿に電話してきた、

「あんた、どうすんの、就職?」

「どうすんのって、動いてるがな・・」

「あんまり、変な会社いったらあかんよ・・」

少し考えていた、

あの会社は変かな・・

「あちこちな、説明会いってるねん、自分の力で何とか見つけるわ・・」

「そういうても、この時勢やろ、お父さんの会社、今やったら人事の人

話きいてくれるみたいやで・・」

「ええ、そんなんええ・・」

「そやかて、あのな、おじさんの会社も口利いてくれるそうや・・」

「そんなもん、コネではいったら、ずっと、コネではいったという負い目をもつやろ、

そんなもん、嫌や、ぜったいいらん!ぜったい自分で探すわ・・」

心配そうな母親の声を聞きながら安心させるために話した。

「これからのびる会社を探してる、外食産業はこれからどんどんのびるんや」

「なんや、外食?」

「また、説明しにいくわ、明日の授業の予習で忙しいねん、きるで・・」

下宿の黒電話を愛想なく切った僕は、

どうしてもコネはいやだった。

就職ジャーナルを毎月買い、あちこちの会社に資料請求を行っていた、

そんな中でも

カラーの見開きで、Tシャツが緑の高原に干してある、求人広告があった。

見た感じ、自由でいいなあ、と思い、資料請求した。

会社は、すかいらーくだった。

会社説明会に参加し、すぐに人事の人から下宿に電話があり、

「ぜひとも、店に見学にきてください、OBを紹介しますので・・」

ぼくは、その言葉を受けて、京都西京極の店に出向いた、

そこには、7/3に髪型をキチンとした和田さん、というひとがいた。

「いきなり、すいません、こちらへどうぞ、」

「ありがとうございます、私・・・」

「実は私は、あなたの大学のOBではありません、日本大学をでまして、

この京都地区担当の和田と申します・・」

僕は、内心、やられた、と思った。

いろいろ、質問をし、相手もぼくに学生生活のことやら

話を聞いてきた。

話がおわり、下宿に帰ると、人事のひとから・・電話がかかってきた。

「本日はありがとうございました・・」

「あの、実は今日は一次面接でして、その申し訳ないですが、だまっていまして、

あなたのことを和田地区担当もよくいってました、ぜひ、次の二次面接を受けていただき

たいのです・・」

ぼくは、相手のペースにはまってしまっていた。話を聞くつもりが、実は面接であったという、

面食らっていた、しかし、まあ、いいか、の気持ちで

「わかりました、いつお伺いすれば、いいのですか?」

と、日取りまで決まってしまった。

それから、大慌てで外食産業をしらべはじめ、それらの会社にも資料請求を出し、

動きが活発になっていった、

その中でもロイヤルホストのほうにも関心があり、資料請求すると、

電話がかかってきて、

「今週に会社説明会がありますので、ぜひ、お越しください!」といわれ、

すごすごと、大阪ガス本社にある、OGロイヤル本社に出向いた。

説明会に行く前に、授業に出ないといけない、単位を落としているものや

必須にものがたくさんあり、週に6日間、学校にいっていた、

一時間目の授業に前に、

先生に話を入れておく、

「会社説明会に11時に大阪にゆかないといけないので、途中で抜けさせてください、

申し訳ありません。。」

そういっておくと、先生は出席扱いにしてくれるのだ。

時間になると、

「そろそろ、長谷くん、時間ですね、出陣です!」

そういわれ、みんなの拍手で学校をあとにした。

説明会がおわり、

「ええ、ここからは、適性テストを行います」

まただ、心の中で動揺していた、

相手のペースが速いのだ。

「受けたくない方はどうぞ、お帰りください・・」

半分くらいの学生は帰っていった、

ぼくは、どうしようか、

迷っていた、

しかし、迷っている間に、クレペリン検査の用紙が配られてきた。

ああ、このテストを受けるかどうかで、くるかどうか、みてる訳だ。

とりあえず、受けることにした。


ドリアの戦い特別編2012年10月13日UP
『すかいらーく 四方山話 1』2014年05月15日 木曜日

伊丹桜台店のヘルプの話・・。2012年7月26日
大阪佃店の思い出・・。2012年8月2日
神戸三宮店の仁義なき戦いの話・・。 どうかな
広島五日市の戦いと挫折と・・。 まあな
四国丸亀のしんてんの戦いが再び続く・・。
観音寺店の玉砕。 
伊丹瑞穂店での死闘。

すかいらーくの思い出 番外編 果てしなき戦い2015年11月26日 木曜日



左うえ、入社研修会に・・。右うえは、入社三店舗目の大阪佃店、オープンメンバーのフロアー女子。
真ん中の女の子は北山さん、佃のオープンメンバーはその後どんどん辞めてしまった。
ランチが忙しく、当時の西淀川あたりは活気に満ちていた。
左下は藍やに入社した I 君のくるま、無断で占領。あまい店長だった。
小さな駐車場ですぐに満車になるんですが・・。よく、幽霊が出る店でした。
入社して西宮に配属、すぐに、二か月でヘルプで伊丹桜台にいかされ、秋に佃に配属。
一年たっても、ランチメニューは知らない、ナイトしか入らないワーカーだった。
ランチスープの作り方も知らない・・。
ランチがキッチンメンバーが安定せず、大変な店だった、店長は合田さん、人間的には
ほんといい人だった、5分で満席になり、ランチが60すぐでてしまうのだった。
ランチスープをマニュアルどおりに作って提供したとき、
東京からのお客さんが、
「そうそう!このあじ!」といって、よろこんでいた、
ぼくはそのとき気がついた、「あ、そうか、関西では味をおさえないといけないのだ・・」
1年半過ぎて、丸SVより、異動命令が下り、神戸三宮店に異動。
三宮では同期の井上さんと高見店長のもと
仕事することになった・・。写真はほとんどなく、下の写真は最後の日に、ULのわきくんが
写してくれといわれ、とったもの・・。二階建てのお店は2時店でもよく売る店だった、前に暴事務所が
あって、けん銃の玉が飛んできて、翌朝刑事さんがきてびっくりしたことがある、
阪神のバースも来ていた。
この店も長い間1年半以上在籍、もうこの店はない。思い出深い店である、
この店もランチが不安定で、何人も解雇したことを思い出す、しつけの難しい店で
前任の佃では準社員天国と揶揄されたもので、きびしくしようと努力したが井上君の甘さで
売店のあらりや料理あらりがなかなかよくならないみせだった、かなり後からきいたが
ナイトのバイトたちが持ち帰りをしていたそうだ。しかし、営業する力はすごく、
売り上げ更新は何度も続いた。そして、今度は三好SVから広島の店への転属を命ぜられた。
事業部のスタッフの中に隠密がいて実は先に聞いていたのだが・・。
それから、たいへんなことがおきてしまった、その話はいえない。
西へ西へと落ち行く平家のように・・。

広島五日市、もうここで店はおわり、次の横の店は九州まで店はない、山口にも店がなかった。
とうじ、食材の発注方式がかんばん方式という原始的なもので、トヨタのまねをしたのだが、
そのかんばん方式が終焉し、パソコンにより、商品管理計画というものに変更がなされ
しかしながら、お店の準備でまったく、蚊帳の外で、その方式をぜんぜん知らないまま、店が
オープンし、食材のないまま、毎日借り物レースにゆくはめになったのだ。
この店ではとにかく、厳しいルールで挑むつもりだったので、しかし、裏目ででて、
バイトの安定が数パーセントしかなく、教えてはやめ、教えてはやめ、の連続、
営業する力もないし、社員5人で朝から晩まで社員営業が続いた、駅の南側だったので
電車がつくたびにラッシュになるという不思議な店、できたころはまわりには空き地だらけ
何もないところだった、関西弁は嫌われていたということを知らず、えんえん関西弁でしかっていた、
オープンのM店長とも仲が悪く、よく喧嘩になりかけた・・。
M店長は評価され、ぼくは常に丸SVから、「このざまあ!なんだ!ばかやろう!」
と、菜ばしで腕をめくりたたかれたのを思い出す。それでも負け時とがんばったもの
大阪から600キロを車で走りくたくたなSVは営業とぼくへの怒りは2時間も持たず
大ひま店(大芝店)にさぼりにゆくのだった。ランチは安定し、一人でいけるようになったのは
成果だった、ほとんど辞めず、しかし、社員との風鈴問題があり、たいへんだった。
M店長は母店のGMとなり、それから、岡山から前川さんが来て、何とか店は安定しだした。
商品管理計画もやっと、教えてもらい、任せてもらえるようになった。しかも、きちんとプリントアウトし
赤ペンで再CKする念の入れよう、
やっと、店が軌道にのりはじめ、今度は前川さんが関西に帰る人事、しかも、売れる須磨浦、しかも
あの同期の井上と・・。
自分は居残り、しかも、次の店長は大学の先輩の寺坂店長だった、このひともえんえん、ぼくの
異動と深くその後かかわってゆく。

中島君とわだいさん、
中島君は関西から広島にいかされ、関西を恋しがっていた、わだいさんもだんなが転勤族で
関西弁を理解するひとだった。中島くんは甲南をでた秀才、しかもアメフトをしていた。
すかいらーくアメフトチームをつくるというのではるか遠く関東に異動になった、
最後、観音本町で飯食って、見送った、白いアコードホンダデッキスタイル。うなりながら
当時は山陽道もなく、山の中のくねくねはしる縦貫道をゆくのだ、

新規オープンメンバーで最後まで残ったのは左の
たわらくん、彼はその後、ガストシンドロームで体を壊したようだ。

寺坂店長が来てぼくはお役ごめん。
「お前は、この店で失敗だったんだ。もう一度、新店でやりなおしだそうだ」
むごいことをいわれ、瀬戸大橋で活況に沸く、四国に移った。
このページをみて、寺坂先輩からメールをいただいた。
大学の先輩でもあり、入社前の西宮ではじめてあって、佃では三国研修や
合田さんとの縁もあり、弁天のおーぷんの準くん、福山中止問題から広島に
広島でのことや、最後の店の交代、など、縁のあるひとだった、

つづく・・2号へ・・

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