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132 夢野39
最終

このへんで夢野に関してはおわりにしなければ

思い出されること、昔のことはおぼえていても、最期のほうのことはあまりおぼえていない。

秋前だったか、神戸花山店で、佐伯部長と話し合い。よくよく思えば
彼とぼくはおなじ年、彼は入社は、大学を辞めてすぐにはいり、少し先輩、SBSの卒業式などはおなじだった。出世コースを大きくそれたぼくとは別に、早くに認められすかいらーく時代にSVになっていた、
大川原さんは、ぼくにことあるごとに彼奴には負けない!そのようにいって、ライバル視していた。
辞める理由については、佐伯さんからが先日の理不尽なクレームのせいか?とまず
聞いてきた、それは違います、独立する夢を実現させるためです。
ぼくは、言い切った。
辞めないように説得する力は余り感じられなかった。このまま店長にいても、先が知れてる、そう思ったのだろうし、引っ越しはもういやであるともいっていたので、
さほど止めにはしなかったのだろう。
思い起こせば、ガスト転換の時に、もうだめだ、辞めようとと思い。退職届けを書いて
いつも背広のなかに入れていて、その封筒がぼろぼろになっていた、4年まえのことだ、あのときもう辞めようと思っていた、
そのとき、よく電話して話していた店長たちのなかに、藤原くんがいた。彼はよく、相談を受けていて、自分のために働くのなら、会社に批判をするのなら、辞めるべきである。
そう、話していた。
西口さん、ぼく、藤原君、柴田さんがそれぞれ同時期に辞めた。
それぞれ独立したチームだ
その前の年は100人の店長が辞めた、どんどん辞めていった。
会社としてはどう思っていたのか知らないが、リストラ効果のひとつとして
上乗せをせずに、勝手に古い店長が辞めてくれるのはありがたいことだったとおもう。
会社全体のリストラは本当に醜いひどいものであった。
まず、名目だけの手当のない、副店長というのがなくなった。
つぎはおまえだぞ、という期待感だけだったのだろうけど、
そして、準社員の給与形態も大幅に改悪させた、あれほど、執念のようにやっていた、
ユニットマネジメント制度、バイトだけで管理し運営させる仕組みであった。
それを崩壊させて、キャプテンもなくし、時給昇級もほぼ無くした、
10円30円50円でおわり、以前は10円から180円まで刻み、キャプテン手当50円など
手厚かった。それを無くした。だれも文句はいわない、いうのは辞める。
「ある店で、ちんたら掃除してるひとがいてね、そのひとの時給型か高いのに、全然仕事できないんだよ」ことあるごとに、きちんと仕事をしてないのに、キャリアだけで時給を上げていた、ということを非難し、正当かしていた。
そして、店長のリストラである。
やっと、5等級になって数年で、その仕組みはおわり、がんばらないと給与さげます、と
スター制度とか言い出して、能力級扱いといいだした、
その当時、1998年のころ、米国の能力主義評価制度、
成果主義というものだろうか、店長を一番から順番に評価をつけるという、
おまえは何番だ!と、毎月出てくるのです。
偏差値教育で育ったぼくは、苦虫を噛むような思いであった。
当時、日本の企業がバブル崩壊以降の立て直しのためにつぎつぎと導入し、
結果的に、どの会社もその運用に失敗し、会社はぼろぼろになったのである。
そもそも日本はほぼ同一民族であり、協力体制で、チームで成し遂げようとするほうが結果がでやすのであり、できるやつができないやつをフォローしながら、いろんな社員もそれなりの立場でベクトルの向きをそろえることができるのである。
できるやつはどんな境遇でも立場でも、のし上がるのである。
できないやつはようするに、ぼくを含めてピラミッド型にその分布になるわけだから
半分以上のやつはできないやつになり、やる気を失います。
まあ、いいや。と、思うようになるのです。
そして、どこにもいた社員は店長になれないもの、店長になってもやる気のうせたもの、また本人の希望などの推薦などで、
夜間の店舗掃除、メンテナンス、トラック、様々な仕事を作って、雇用確保という大義名分でリストラしていった。
北井くんが、電話してきた、長い電話だった。なんでも、塗装の仕事をさせられる。
トラックのほうは、違反が多すぎてぼつになったとか、
ぼくは、言葉をかけることができなかった、なんと言えばわからなかった。
「もう、だめと、思うなら、辞めて、他に仕事さがせよ、無理するなよ」といった。
北井くんは、ほんと仕事ができなかった。
でも、馬鹿にされても、なんとか続けていた、そういう人は結構居た。
北井くんはぼくとおなじ年、しかも、入社試験を同時に受けていたのだ。
彼は西宮デポであった試験に、ぼくがベージュの背広を着ていたのを憶えていたのだ。
しかし、彼は、すかいらーくを蹴って、違うアパレルの会社に入社したのだ。
しかし、そこも辞めて、中途ですかいらーくにはいり、
ぼくが瑞穂で新店オープンのときに、ヘルプでも来ていたのだ。
その後、ぼろぼろのガストの時代に一緒に働くのであるが、正直で素直であるのだが
人を使い、店を運営するにはかけてるものが、あった。
結果、彼は辞めて、こんどは、おはぎの丹波屋で働き始め、
偶然、見かけるのである。
ぼくが独立して数年たってから、ぼくが弁当屋、かれはおはぎや、
しかし、ぼくは、なぜか、声をかけなかった、
なんか、悲しかったのである。
社員たちのリストラが進むと、本部社員のリストラ。
どんどん現場にもどすのである、そんなものできるわけがない。
まあ、嫌がらせとしか、いいようのないものである。
イエスタディにいたシェフたちは能力があり、工場配置に、
どんどん、若い人を採用し続けていれば、給与もやすくつくし
いいなりで、なんでもあたりまえのようにやるだろうから、
そして、横川オーナーたちは引退する。
しかし、拡大路線、ガスト路線など、さまざまな要因を含み
オーナーたちが、会社から追放される。野村証券たちに株を握られ
利益確保もできずに、リストラされた。
ここまで、リストラが完璧であるのはめずらしい。
佐伯さんは、紀夫さんの配下でもあったので、そのまま、新業態新会社に移り
そこで、社長に抜擢される。
大川原さんは、いまや、社長になった。
すごいものだ。
しかし、佐伯さんの会社は、数年前から利益がでなくなり、コロナでも致命的で
退任されたようだ。

夢野で部長が来て、小さい紙切れに
退社票みたいものをもってきて、日付と、サインをしてくれ、と渡した。
雇用マスタのところにも退社日を入力日を指定した。
要するに、残った、使うことが14年なかった有給休暇つぶしであった。
夢野での残業も4年でおよそ300万にもなっていた、自分で計算したが
それも3年で時効である。
長い間バイトしてくれたやつには、有給をつかって、辞めろよ。
いままで、ありがとうな、よくがんばったな。今度送別会するよ
と、いっていたぼくに、この仕打ち
しかし、社会は、会社は厳しいものである
あの紙切れと、最期に店から出たときの鉄扉の冷たさ
わすれることはできない。

ぼくにも送別会はあり、大川原さんはわざわざ東京から来てくれた。
「惜しいよ、もったいないよ」と、言ってくれた、そのひとことで救われた
なによりも尊敬する大川原さんだから。

佐伯さんも尊敬することはなかったが、辞めてから何回も自分の店に
来てくれたり、組合のレクにわざわざ、呼んでくれた。もちろん、いかなかったが

「長谷さんがいなくなったら、ぼくはどうしたらいいんですか?」
そう何回も言われた。ぼくが愚痴を聞いていたり、励ましていたり、
そういう店長たちはこころ折れたようだ。
しかし、ぼくの愚痴はだれも聞いてくれなかった。

今思い出すと、おかんのあの声がきこえてくる
「なんで、あんなとこいくんや」
おとんの
「なんで、ああなったんかな、はー」

おとんとおかんの嘆きと親不孝の僕は、
返す言葉はない。
しかし、価値観、幸福度、なにがよくてなにがわるいのか
それは、名誉や金銭ではない、と思うのだ。

夢野おわり、ご拝読ありがとうございました。
後半は批判めいたものがおおく、げんなりしたとおもいます
申し訳ありません。
いまのすかいらーくさんを非難するためのものではありません、
いまは、自分の店を20数年やってきて、経営というものが
いかにたいへんか、わかります、人件費の負担もわかります。
あのときの自分のいまの自分から、考え方ややり方を
こうしたらよかったのにね、とアドバイスもできます。
すこしの考え方やり方の差です。
「やらされてる」と「やっている」
能動的であるならば、きっと、かわったものとなっていたでしょう。
もっと、上から認められていたでしょう。
わかります、いまなら、しかし、遅すぎです。
そのあたりを含めて・・。
まだまだ続きがあります。

というのが、2016年1月17日より
ガストで再びバイトを始めるのです、店をやりながら・・。