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131  ファミリーレストランはいらない

1970年代の高度成長時代に生まれたファミレス。

横川兄弟のオーナーたちは、なにを夢見て、なにをしたかったのか、
もともと、三多摩地区で「寿食品」というスーパーを兄弟で多数舗展開。
しかし、そこへ、もっと大きなスーパーがでてきた。
彼らは、自分たちのスーパーの限界を感じ、新たなる起業を行おうとした。

なんども聞かされた、ペガサスクラブ
1962年に、東大出で読売新聞の記者であった、渥美俊一氏が作ったもの、
ことぶき食品をやりながら、横川兄弟は
そこに参加し、勉強を続けていた。
当初は、そうそうたるもの、日本の戦後経済の流通業界のレジェンドがそこにいたのだ。ダイエーの中内氏。イトーヨーカ堂の伊藤氏、いまの流通業界のメインの人たちそこで勉強していたのだ。
毎年のように金のかかるものだが、米国の市場を研究にいっていたとか、
そこで、みたのが、ファミリーレストランだったそうだ。「これしかない!」
1970年に、すかいらーく国立店をオープンさせ、そこから伝説が始った。
「水商売」「食い物や」
当時は、この業界で、きちんと会社として、企業として成り立っているものはなかった。
そして、ナショナルチェーンもなかった。あるのは、国鉄に付随した、日本食堂 くらいなもの。
ぼくが入社したのは1984年、300店に行く頃だった。二部上場を前年に果たし、すぐに一部上場になり、株式を公開した。優良企業として株価は
どんどん上がり、資金調達は楽になり、出店は毎年100店以上。関東圏から、まずは関西圏の三国店に一号店を出し、豊中を中心にドミナント戦略を行った、2号線を中心に、西宮、神戸と
いい立地がまだ安く確保出来た時代。
右肩上がりにどんどん成長していった。
茅野社長は、社員思いであった。
いつまでも、水商売と思われるのはよくない。
挨拶から変えようと、
よるでもあさでも、「おはようございます」
を辞めさせたのである。
ネクタイをしめて、髪型も、スーツを着て通勤。
ことあるごとに、本社本部で研修を行う。
50店の壁100店の壁いろいろと問題が出てくる、ぼくは1000店の壁が来る前に辞めたが
この1000店の壁を前後に会社は変っていったとおもう。
オーナーたちのコンセプトは、
ホテルで食べるようなサービスと料理をあなたのまちで安くおいしく提供したい。
「価値ある豊かさの創造」であった。
ここで問題なのは、価値ある豊かさという定義であった。日本全国、まだ、ピザを食べたことのないひとやステーキも、ハンバーグも、食べにゆくということがまだなかった、
茅野社長がことあるごとに言っていた、
「晴れの舞台」から「日常の世界」に変りつつあったバブル崩壊以降。
右肩上がりの成功体験しかないすかいらーくが
悪戦苦闘し始めるのであった。
すかいらーく、デニーズ、ロイヤルホスト
この三者はさんようであったが、都市圏のファミレスの御三家といわれていた。
晴れの舞台、たとえば、お正月に親戚一同、孫つれてすかいらーくにゆく、
クリスマスイブにデートで使う。
ぼくもよく見た、客席で、幸せそうに、プレゼントの交換であった。
そういう晴れの舞台。が、そういうのが減少していったのである。
なんで、減っていったのか
お客さんは見破ったのである。
それと、バブル崩壊でお金がないのである。
高度経済成長期のなかでも貧しさとゆたかさへの
憧れがあった。
豊かさの基準がかわっていったのである。
本物志向、若いカップルは、高級ホテルにいきだし、家族は居酒屋で食べて飲む。らーめんブーム
グルメブームがそのころおきはじめていたのだ。
なんでもあるファミレスは、なんでもあるからこそ
なんでも中途半端なのである。

なんとか、客足をもどそうと、試行錯誤のキャンペーンがすかいらーく末期にあった。
ビッグバーグキャンペーンというのがあり、
値段は忘れたが、安くて大きなハンバーグがあった。ある程度でるのはでるのだが、2回目にはでないのである。
その後、月刊食堂を店で読んでいると、この本も経費削減で各店舗に送られることがなくなった。
「ビックバーグについて」の討論会をグルメといわれる連中がしているのである。
すかいらーくがこんな肉質のハンバーグを出すとは残念、悲しい。社員はどうおもっていたのか、
など、酷評されていた。
ぼくは、読んでいて、自分が情けなかった。
自分はおいしいと、思ったのだ。
要するに、ハンバーグはミンチが大事で
牛と豚をミンチにするのだが、デラックスなどのハンバーグは牛引きで、その他は混ぜていた。
しかし、今回のビッグハンバーグは、チキンのミンチなど安く出すために、入れていたのだ。
そこが、ぼくはまったくきづいていなかったのだ。
ドミソースの濃さも、ハンバーグの質も
まったくわからないのだ。情けない。
あの瞬間、おそらく、価値観が社内で変りつつあった。いくら豊かさを提供したくても、赤字ではつぶれるのであり、豊かさよりコストが優先するようになった。チェーンストアでは、そのコスト削減による資金捻出という「錬金術」があり、それは魔術でもあるのだ。
ファミレスがなんで、お客さんが来なくなったのか
要するに、社員たちが馬鹿なだけである。
僕を含めて、マニュアル人間であったから、
この味でやれ、といわれると、それでやるのが正しい。要するに、帝国日本陸軍が、この戦争は負けない。この作戦をやれ!といわれてら、死んでもやらないといけないのとおなじ。
だいぶあとだが、ロイヤルはキッチンにはコックがいて、シェフがいて、こだわりがアリ、権限もあった。だからぶれることのない品質で、あるいみ、尊敬であった。しかし、それも、出来なくなり、シェフ制度もなくなったときく、
ファミレスはもう、ファミリーが利用する機会が減りつつあったのだ。回転寿司、ハンバーガー、ラーメン、そう目的別の専門店ブームになったのだ。
バブル崩壊以降。どんどん前年を割り始め、利益を出すのが難しくなってきた。
それで本部がおもうのは、そう、現場のせい。
現場の店長が馬鹿だからである。
ぼくらにしてみたら、言われたことだけいわれたどうりにやってるだけ、
売り上げを伸ばせ、客数を上げろ、というスキル。
店を客観的に把握し、問題点をさぐる。
などのため、たとえば、無料券の発行。家々に訪問して無料券を配り、客数を上げる。
そんな浮いた時間どこにあるの?
すごい店長がいて、店から家まで歩いて通勤して
毎日2時間かけてチラシを蒔いたそうだ。
こいつはできる!すごい。
ということで、すぐに本部に格上げ、
ああ、現場は常に、最前線最弱になる原理です。

経済を読める社員なんかもいなかった。
会社がこんなに借金抱えて、たいへんです、
利益ないです、そんなこといわれてもしりません、まあ毎月給与振り込まれますから・・。

バブル崩壊、それから、不良債権処理。
そのほうが問題だったのです。国と銀行などの不良債権をなんとかするために、ひとつの手に、工場などの生産岐点を中国に置いていったのです。
そこで、中間層下層の仕事が奪われるのです、
特に、地方の経済がこれでおわりました。
そういう人たちは多く、ファミレスに行く機会も減らすわけです。
で、ガストを思いつくのです。
しかし、当初のガストは違うものでした。実験店では違うことをやってたのです。おそらく、横川兄弟は店長についても深く悩んでいたとおもうのです。
みんな、裁量も智恵も能力もなく、ワーカーでコストカットできる人財ばかりだったからです。
そこをカバーしようとしたのですが、出来なかったようです。
ガストになって、死ぬほど忙しくなり、客数売り上げは倍増し、驚くほどでした。いままでの苦労はいったいなんだったのか、と思った。
しかし、それは、売り上げ客数が伸びたのでは無く、客層客質を変えただけのことだったのです。
そこもぼくは考えもしなかった、まあ考える余裕もなかったが。ファミリー層もそこそこ来ていたが
もっと若い高校生や、ヤンキー、サラリーマンなどの日常で使う店になっただけのこと、
そのことも証券会社のアナリストの記事でわかった。
あ、そうだ。とね、
ほんと、戦争行った人間が、戦後、負ける戦いを
勝つと信じてやった、その愚かさに気づく、
それに似たようなものだったのです。


この項目おわり。


すかいらーく国立1号店、今みてもすごいいいセンスである。