(旧)すかいらーくの思い出 本文へジャンプ

134.独立


1998年12月から フリー自営業に転身。

36歳、かまどやという辨当のFCシステムでまたがしのまたがしというあやうい仕事をすることになった。

辞めてから、時間という感覚、縛られてるという感覚が無くなり、開放感にひたった。やすんでいたのは、すこしだったか、すぐに手伝いに来いと弁当屋の仕事に呼ばれる、研修という名の多々働き。
まだまだ、神戸は復興の途中であった。
ガスト夢野のバイトパートの人たちがつぎつぎと辨当を買いに来てくれた、
みんな、最後にぽそりというのは
「このどの店長は・・・・」という文句だった、ぼくは内心、僕に言われても仕方ないので。
へんじのようがなかった
ほとんど、欠員の時間が無い、人を採用しまくった。よって、新しい店長は現状維持でやれるのであった。新任の店長でなかなか、ショウニンできずにいたやつで、要するに仕事が出来ないやつ、なぜか、なぜか、佐伯部長はいたって気に入り、この難関でどつぼの夢野店に配属させた。
ぼくが、懇切丁寧に引き継ぎをやり、メンバーの洗い出しと今後の特徴について数時間のべても、聞いてなかった。
とにかく、仕事をしない、車の話ばかりする、新メニューの準備を全くしない。
問題多き女社員も火だねだった。
何よりもぼくがねがうことは、みんなが、辞めないでまじめに仕事をこなし、店を運営することだった。あれだけ、人が居なくて、採用も来なかった店は、どんど(?_?)面接に来てくれて定着率も抜群のよくなった。すぐにかわいい女の子が来るとちょっかいをだすような輩のバイトもいなくなったし、くせのあるやつもいない。
店の中で、和というものができていれば、それでいい。
それが、全く無い店だったのだ。
本当に苦労をしたが、だれもかれもその苦労を知らない、しったどころで
どうするものでない。苦労や難問題が多い店なので、新任のやる気の無いやつをよこしたのだ。無理に違いなかった。
現状を理解してるのかしてないのか佐伯部長は、結局、一年で、そいつをフェニックスのほぼぼくと同期の大崎さんとチェンジさせた。
ぼくは、その店長が可哀想になった。
「もう、だめだとおもったら、違う仕事さがしたほうがいいよ、」
と、アドバイスした、過酷な仕事で、趣味にいきたい人間には不向き。
結局、そいつは、退職した。
会計士を目指すと、いう。何か目標を持ってやれよ、と、ぼくがきつくいったせいもある。
一年勉強して、春の国家試験を目指す。という、結果をまた聞かせてくれ
つぎの春、彼はぼくに報告に来た
「おちました」という報告だった、ぼくは、すっかり忘れていたんだが、
彼は、やはり、指導がないと成長ができないような人間でアリ
管理者としては難しい部分があったのだ、
大崎さんも二年もいただろうか、
最後に店を去るときに僕の店に来て
「楽させてもらったよ」といってくれた、ぼくの採用して残った人間が定着していたことで
それは嬉しかった、ぼくはまったく、楽はできなかったが
異動してから、前任地のごたごたは悲しいものである。
店長は次々と替わる。ぼくが変らず苦労した4年、
しかし、その後は、なにを思ったのか、2005年に完全閉店するのだが
4人も店長がかわった、
現場を知らない人事とはすかいらーくのことである。
ぼくとはいえば、独立して、余計に苦労を重ねるのである。
その話はこんど、そして、バイトにいき
変わり果てたガストで、いろんなことを思い、感じるのである。
最後はひどい辞め方だった。