話を少し時間戻す、
1979年、東君は京都に来たらしい、浪人生活のため、
東君は 福井で有名な藤島高校の出身だった。藤島高校は文武両道で 部活も盛ん、勉強も県下一番であったらしい。
なにしろ、ノーベル賞をもらったかたもいるらしい・。
彼は、テニスか、バトミントンか、どっちか忘れたか、インターハイまでいった選手。らしい、うる覚えでもうしわけない。
彼の幼稚園時代からの友人が、よくでてくる、藤井さんだった。ぼくに将棋で負ける京都大学生。
なんと、藤井さんと東君は、幼稚園から浪人生まで、同じところで時を過ごしたのである。
中山酒店の借家は,一階はグリル大塚という有名な店で、二階の三部屋を下宿として提供していた。
鍛治さんが二年になったとき、グリル大塚は移転してしまい、下の部屋が空いた、
東君が、一回生で同志社の奨励学生?に合格し、藤井さんは、京都大学法学部に合格した。
どちらかが、先に小山コーポをみつけ、たまたま、道で下宿探しをしていた片方が
「おおひさしぶり?どこかにいい下宿はない?」
「僕が入った下宿はあいてるからどうか?」
そういうことで、同じ下宿になった。
ぼくは、そのころ長距離通学で、下宿は二年から。
しかし、一階のでかい8畳の部屋にいた、藤井さんが 大屋さんに追い出された。
そのことをよく、東君は笑いながらいっていた。当時は、なにをしたかはきかなかったが
あらためて、聴いてみると。
藤井さんいわく、
「何もしていない」なにも悪いところがなく、追い出された。
気に入らない。ということらしい・・・。
朝、寝て居ると、中庭におっさんがたっている大屋さんだ
藤井さんはねぼけてみるわけです。
ビックリするとおもう、カーテンがなかったんだ。
そこで、睨むかたちとおもわれたんだろう。
「出ていけ」
藤井さんは追い出され、上賀茂神社の前の米やに移った。
吉田町あたりでもいいものを、京産にどんどん近づいてゆく。
その不思議な出会いで、鍛治さんと東君は同じ年ですが、鍛治さんは浪人していないので
先輩になり、東君は敬語を使っていた。
「なんで、同じ年なのに、鍛治さんに敬語をつかうんだろう」笑いながら、言っていた。
1981年4月になり、藤井さんが追い出された部屋に、逢坂が一年生で入る。
もともと空いていた、三畳一間6000円の部屋にぼくが遅れてはいる。
前にもかいたが、数秒の差で、違う学生がはいるところだった。
学生課で売れ残った下宿、
安い下宿。北山周辺。
そこで、「なの一号」という登録番号を見つけた。数秒で遅れた学生は、
残念そうな顔をし、学生課を去った。
もし、僕が遅ければ、みんなにあうこともなかった。ミニFMもできなかっただろうし
事故ももしかしたらなかったのかもしれない。
藤井さんと東君はなかのいい、ソウルメイトみたいなもんだった。
藤井さんはいつも自転車か徒歩で下宿にきた。追い出されても 毎日のように来ていた。
暗いくらい急な階段をかけのぼり、廊下を通過し、東くんの部屋をノックもせずにはいるのだ。
「ああ、金が無いわ、ああ、腹減ったわ」
東君も貧乏学生、少し金かしてくれ、といっても厳しいのだ。
僕は、スペイン語の勉強をしながら、二人の話がよく聞こえてきた。
もちろん、みんな、鍛治さんの部屋に集合する。今日あったことやいろんなことを話す。
千成に飯を食いに行こうか?
東君はたいてい、やすいランチ300円。大将が貧乏学生のために格安なボリュームある定食をだしていた。
彼は学費も特待生で、バイトをして生活費を稼ぎながら、貧乏学生だった。
同志社のテニスサークル アップルにはいっていが、当時は学生がおしゃれして車を持ち始めたりしていた。
みんな
少し派手な感じのひとがおおく、貧乏学生の東君は、無理をしていたと思う。
鍛治さんはゴアテックの羽毛のダウンジャケットを着ていた。当時、4.5万はするだろう、
寒い富山県だし、下宿も石油ストーブ禁止だから、寒い。
東君は、アップルの友人たちもみんな、ゴアテックのダウンを着ていて、よほどほしかったんだろう。
大阪で、数万、アップルの友人から金借り、赤の素敵なダウンジャケットをかった。
ぼくらに自慢していた・・。いまでもビンテージ物として、人気がある。
しかしだよ、その自慢のひとつしかない、冬服で
彼は事故を受け、赤いダウンジャケットに赤い彼の血がとび、
鍛治さんが、病院で抱えてもっていた。
「ああ、こんなに、なってしまった、自慢のダウン」と、ふと鍛治さんは嘆いた。
事故の時にどうしてもループしてしまうのだが、
藤井さんの話。ぼくらは、洛北病院から、東君が死んで、福井に仏をなって帰ったあと、
小山コーポに帰った、
逢坂が、東君の部屋のドアを開けて、
「さっきまで、履いていた靴下が、その形で脱ぎ捨ててある」と嘆いた。
さっきまで、そこにいた。
ぼくらは沈痛な雰囲気のなか、もう11時を過ぎただろう。
玄関のシャッターが、がらがらとあいて、いつも元気のいい藤井さんがきた
彼は、いまでも記憶が勘違いしているが、僕は覚えている、あのシーンを
逢坂とぼくが、藤井さんが二階にあがるのを呼び止めた。
事故の顛末をぼくが告げた。
あのシーンだけは忘れられない。
どのきつい、銀渕の眼鏡のなかに泪があふれ、眼鏡の中が泪でみちた。そしてあふれた。
「うそやろ」
「ああ、これは夢や、夢に違いない」
僕は、残酷にも夢でない。といった。
彼は階段の上にへたりこみ、おもむろにセブンスターに火を点けた、
おもいっきり、吸い込んだ。タバコの火が赤く燃えた。
藤井さんは、左の手の甲に、熱く燃えた火を押し付けた。
「夢じゃない」やけどが痛い。その痛さより心の痛さが勝った。
僕と逢坂は、言葉が出なかった。
そして、東君の部屋に入り、今夜はここで泊まると言い出した。
数10分たち、藤井さんはおもむろに藤科高校の友人に下宿から
電話しはじめた。つぎからつぎへと、電話した。
電話された方も、絶句だ。
明け方まで、みんな眠れなかった。
おもてを走るバイクのおとが、夜中に聞こえ、下宿に彼が帰ってきて
あれは、夢だったんだ。
とさえ、思い出した。
そういう、1981年の僕らのクリスマスイブだった。
街ではクリマス、ぼくはそれからクリスマスが嫌いになった。
つづく。僕らも記憶が薄れるだろう、思い違いもしてるだろう、誰も語らないから語ろう、彼のことを
2025/08/22
追伸、藤井さんに10年ほど前あった、
手の甲をみせてもらうと、あのたばこのやけどのあとがあった。
「これを見て思い出す」といった。
彼は一晩、東君の部屋にいて、朝早く自分の米屋の下宿にかえり、福井に帰る荷物をつくり、福井へ飛んで帰った。
翌朝、朝日新聞の京都版の記事を探した、小さい記事で彼の死がでていた。
ぼくらに見せた。見せた後、学生手帳に綺麗にたたんで閉まった、