mini FM 下宿ではじめる。

四回に、なっても無謀にもぼくは数々のことをしなければならなかった。

とにかく、単位を落としまくっていたし、スペイン語の先生には、嫌われていたとおもうし、

なんとか、親に学費を払わせるのは4年で終わりにしたと思っていた。親は、高校卒で、早くに戦争で父親をなくし、

苦労した。おかんは酒造会社「百万両」で、会社員としてがんばっていた、

「今日も3000円のためにがんばるか!」というのが口癖だった。

親父は、印刷会社で働いていたが、あの当時はどこも給与は安い、印刷会社は給与は安かった。

それでも、ぼくが工業校なのに、大学に行きたいというから、行かせてくれた。

そして、落第するひとがかなりいた。春にはたくさんいるのだが、そのうちこなくなる先輩が多かった。

「ああいう風にはならないでおこう」と思っていた、

なにしろ4年間で語学をやろうというのには無理がある。しかも大学という教育課程の中、学問として成立するには

徹底的に授業で学生を追い込まないといけない。でないと、駅前の語学学校に行けば充分ということになる。

かなり話がそれた。

東君の事故死、ぼくらのPTSD 下宿の新入生大江君の登場。

その大江君が 二回生になり、ESSを辞めてしまい、モラトリアム状態になり、

ぼくが説教をする。

時間を大切に。

夢や目標をもて、無ければ探せ。

「サークルをつくろう!」 そう、大江君のために言った言葉。

「何をすればいいですかね?」

ぼくは、ありきたりな軟派なサークルはよそうといった、お遊び的なものはよそう。

いろいろ提案した。

そのなかで、当時原宿で人気が出た ミニFMをやってはどうか?

といった。

「長谷さんも参加してもらえれば、やります」

ぼくは二つ返事で、OKした。もともと、僕がやりたかったのかもしれない。

ミニFM(ミニFM放送局)とは、電波法で規制されていない微弱電波を使った周波数変調(FM)方式の無線局である。

当時、FM局は少なかった。京都の放送はNHKだけだった、東京名古屋大阪の大都市だけFMがあり、地方はなかった。

周波数はやまのようにあるのに、ひどいもんだった。

放送法上の「放送局」ではない。電波法上、免許を要しない無線局であるため、無線局免許や無線従事者免許は必要がない。微弱電波を超える出力で送信すれば違法となり総合通信局による取締りの対象となる。

実を言うと、当初は、FMの電波を飛ばす機械、トランスミッターのことでいろいろ悩まされた。

当初は、大江が「ラジオの制作」という本を買ってきて、その中にあった「FMトランスミッター」の製作記事があり、

無謀にもそれを作ろうという話になった。

話がそれるが、電波のよく飛ぶ機械を或るスポンサーにかってもらい、飛ばしていた。

北山どうりの名前忘れたが 落語家がDJをするお店のミニFMがあった。そこは電波を都バス過ぎて、郵政省電波管理局のお縄を頂戴し

設備機器全部没収となった、罰金が逮捕かわからないが、

ぼくらの放送局の人間が、その情報を出してきた。そして

「批判とか、悪口とか、言いたい放題でm誰かがクレームいれたみたいですよ」

といっていた。

しかし、僕も数日後、目撃した。

アンテナをたくさんあげたバンが、ぼくらの下宿の前をいったりきたりしてるのを、僕は内心 やばい!

と、思った、しかし、何もおとがめはなかった。

なぜ、電波法違反で検挙されなかったのか、

ひとつは、倉庫みたいな下宿で放送してるとは、場所を特定できなかった。

二階の部屋から出す電波が、となりのいえのトタン板などに反射し、場所を特定できなかった。電波をとばすにはアンテナが需要だった。

それに、悪口や批判、宗教についてはいわないでおこうと、と決めていた。

この項おわり、以下工事中、