阪神大震災の記憶  2

そして、店が心配になり、再び、伊丹まで車を走らせた、もうすでに交通渋滞が起きていた。何とか間道を抜け、店に帰り着くと従業員が集まっており

客席にテレビをもってきて、アンテナをのばし、ニュースを見ていた。みんな無事で、けがもなく、社員も再び店に来ていた。

「店長、大丈夫でしたか?」みんな心配してくれていた。

植村が、テレビを見ながら、僕に叫んだ。

「このテレビ中継の大火事、店長の家の近くじゃ、ないですか?」

テレビを見ると、御影だった、阪神の北側の石町あたりが大火事だった。あのとき、のろしのような煙はこんな大火事になっていた。

もう、冷静さを失っていた。あかん。これはやばい・

「北井君。店頼むわ・・。また、御影に行くわ」

再び、車で神戸を目指した。しかしだ、もう大渋滞が起きていて、どの道もうごかない。

171号線も武庫川の手前で何時間も何時間もうごかない。夜になって。一旦自分のワンルームへ帰った。

自分の部屋を片付けた。その夜のテレビを忘れることができない。夜中に滋賀県の姉から電話が来た。

「やっと、通じたわ」

「家は大丈夫やったわ」

「御影にいったらあかんで、」

「なんでや、」

「御影の浜の御影コンビナートが爆発しそうで避難勧告が出てる」

「ええ、ほんなら、どうなるんや」

ぼくは、行くなと言われても 親を心配するのは行くに違いない。行かないふりをした。

神戸の対岸の関西空港から、長望遠で、長田付近の大火事を延々、生中継してるのだ。一晩中燃えておるのだ、長田は・・。

もう、だんだん、驚くことはなくなり、身構えるようになった。

なんで、こうなるのか、

夜明けをまって、決心した。歩いて神戸まで行こう。

とりあえず、西宮越水のガストの店までいき、店長にいってとめさせてもらった。その店には数十人、家がつぶれた人々が避難していた。

そこの店長は自転車をくれた。しかし、すぐにパンクした・。

夙川からは阪急はうごいているのか、ボストンバックなどをひきずりながらたくさんの人々が避難してくるのとすれ違った・。

二号線を歩いていると、どこかの自衛隊の部隊と一緒になった。おなじように行くことにした。

しかしだ、自衛隊の人々は30人いただろうか、西宮でも被害が相当で、二日目でも生き埋めになってるひとがいて、

呼び止められるのだ。

「助けてください」懇願され、二人三人、現場へ行く。芦屋川をこえる頃は数人になっていた。

JR芦屋駅も相当壊れており、なにしろ、二号線沿いはひどかった。古い家がおおかったせいか、軒並み倒れていた。

二号線を神戸に入った。忘れることのないことがある。

おじいさんが、僕を止めた。

「宮地病院はどうなった?」

「どうしたの、おじいさん」

「薬がいるんや」

ふと横を見ると、宮地病院は全壊だった。

「おじいさん、宮地病院はつぶれている。薬が心配なら一度いってみたらどうか」

ぼくはいったが、宮地病院はそれどころではない、もう、近隣のひとびとが死ぬか生きるかの状態だった。

野戦病院。

宮地病院も今も立派に立っている。地域医療を支えながら、

住吉川に近づいてきた、大きなマンションが倒壊している。

川の近くで、驚くべき光景を見た・。

屋台が出ているのだ。

「一本 3000円」

当時は300円前後の焼き芋が10倍で売られている。ふてぶてしそうな顔の男だった・。こういう非常時に人に付け込んで

悪徳商売をする。人間というもの悪を感じた・。

阪神御影駅の南のスーパーではポテトチップス一袋2000円でも売っていたそうだ。店はつぶれたが、ひどい奴らだ。

やっと、御影にたどり着いた。自転車はパンクしてるし、のれない。押してやっとついた。

御影の浜のほうにいくと、無人だった。誰もいなかった。規制されみんな避難しているのだ・。

家の前にゆくと、おかんの文字で、

御影高校のどこどこに避難しています。

それで、学校を目指した。学校は寒く、普通の教室の中にいた。なにもない、さむい。

親戚の子供たちや、おさななじみもいた。

夕日が見えた。明るく沈んでゆく。あのときほど、太陽は沈まないでくれ、と思ったことはない・。

「こんなとこおっても、ねるとこもないし、どうすんの?」

おかんもおとんも昨日の夜は一睡もせず、歩き回っていたらしい。

ぼくは、こういった。

「もう、ええやん、家に帰ろう」

三人でいえにかえり。石油ストーブをたいて、寝ることにした・。

「交代で寝ような、地震が来たら逃げなあかんし、コンビナート爆発したらにげなあかん」

「もうええやん、三人で死んだら、」

もう判断力は低下していた。

石油ストーブは危ないが、暖かかく、気持ちよかった。

夜中じゅう、ひっきりなしに、サイレンを鳴らして、43号線を救急車などが走っていた・。

おとんがいった。

「昨日の夜に、和歌山のなんとかという聴いたことのない消防車にであって、救助にきたけど

どこにいったらいいの?と」

それで、近くの消防署を教えたけど、一晩中走ってきたらしい・・。

そういう話をしてると、交代で起きてるはずが、三人で寝て居た。

水も出ない、電気もない、ガスも出ない。食うもののない。

それでもおかんは家を掃除していた。どこそこのだれだれが死んだ。その話ばかり。

あの家もこの家も、亡くなった。

三日目にはいり、自衛隊のひとびとが本格的に着だした、

まずは、救難救助、まだまだ、ウマって生きてる人がいた。

そして、仏さんの確保、もう、あちこちの家から毛布にくるまれた仏さんが出てきて、

車か、タンカーで、集めるのである。

御影小学校の遺体安置所であった。御影工業高校も灘高校もおさまらないほどの仏さんを収容。

もう、戦争のようなものだ。

仏さんにであっても、自分の中では感覚がくるう。

昼過ぎに、おかんとおとんと話し合い、もめた。避難するかどうか

疎開というやつ。結論が出ないまま、ぼくはとりあえず車を西宮まで

とりにいくことにした。阪神電車は止まっていたが、タクシーは動いていた・。

マスコミの連中が、どんどんタクシーにのって撮影をしだした。テレビとか、

あのときは本当に腹が立った。うつすなよ、と思った。のちにそれは間違えだと思った。

タクシーを捕まえた。うんちゃんも被災していた。家族は避難所にいるらしい。でも儲け時だと

いうことで動いてるらしい。さっきもマスコミを載せてきたといった。さすが運ちゃんは道を知り尽くして

走れる道をあちこち走って、西宮駅に着いた。

また、こんど、神戸に帰るにはどうすべきか、渋滞のなかいくと、数時間かかる。

ぼくはふと頭によぎった。

「そうだ、六甲山を通過しよう」

まあ、今考えれば、六甲山もがけ崩れなどおきてたらこわいのだが

生きていた道があった。そのルートはまだ、すいていた・。

西宮から六甲にのぼり、六甲道に降りる、

家に帰ると、ひと騒動。

避難するかどうか、

「もう、神戸におってもしかたない」今思うと、ひどいことを言ったとおもうが

おかんはしぶしぶ車に乗った。そこからどこを目指すかというと、滋賀の姉の家だ。

しかし、二号線はびくともしなかった。渋滞の連鎖だ。

大阪に抜けるまで5時間はかかった。おかんは、景色がみたいといい。

つぶれた家々を眺めていた。もう、どれがまっすぐにたっているかわからん。

といいながら、見ていた。

三人とも 飲まず食わず、

武庫川を越えて大阪にはいると、うそみたいになんもかわらない風景。

三人で飯をくおうと、サンデーサンにはいった。

ふと、おかんの足元を見ると、スリッパだった。

「おかあちゃん、スリッパやん」

「あんたが、せかすからや、神戸から逃げてきたいうわ」

三人でひさしぶりに飯を食べた。おかんが電話しに行った。

しかし、怒って帰ってきた。

「あんな、もう先客がおるねん、旦那のおばあさんが甲子園からきてるそうだ」

おかんは、怒りまくっていた。日頃からなんもせえへんのが先にいって。あれだけしてやったのに・・。

「おかん、しゃーないやろ、こうなったら、伊丹に行こう、予定変更や」

そして、車で 自分の店に行き、店は営業できないので閉店してるけど

水と電気はきてるので、小店舗のソファーを崩してベットにして、そこで寝てもらった。

二人とも大満足でトイレもキレイし、あったかい。電話も公衆電話だからすぐに通じた。

「ああ、ひさしぶりにぐっすり眠れたわ」

「よかったな」

それから、おかんは自分の妹が三田にいるので、そこに避難すると言い出した。

ぼくは、今度は三田へ車を走らせた。

つづく  3へ  2025/01/09