樽廻船 菱垣廻船
江戸時代の後期、淡路島の貧家に生れた高田屋嘉兵衛は、悲惨な境遇から海の男として身を起し、ついには北辺の蝦夷・千島の海で活躍する偉大な商人に成長してゆく……。沸騰する商品経済を内包しつつも頑なに国をとざし続ける日本と、南下する大国ロシアとのはざまで数奇な運命を生き抜いた快男児の生涯を雄大な構想で描く一大巨編、1983年。司馬作品は怏々として長いですが、読みごたえがあります。いまでもそうですが、ロシアとの問題、もう歴史は長いのです。高田屋嘉平は淡路島からでてきて、菱垣廻船にのり、やがて、北方航路を開き、択捉までの千石船をもつようになります。この中でも御影の船乗りの話がでてきます。
天明2年(1782)、伊勢白子浦を出帆した回米船・神昌丸は遠州灘で暴風雨に遭遇、舵を失い、七カ月後にアリューシャンの小島に漂着した。沖船頭・光太夫ら十七人の一行は、飢えと寒さに次々と倒れる。ロシア政府の意向で呼び寄せられたシベリアのイルクーツクでは、生存者はわずかに五人。熱い望郷の思いと、帰国への不屈の意志を貫いて、女帝エカテリナに帰国を請願する
こんなすごい日本人がいたのかとおもいます、
基本的に、江戸幕府は、江戸城がある東京湾が船で攻められると弱いということを知っていたと思います。それと鎖国政策。
大船建造禁止令:諸大名の所有する500石以上の軍船・商船の建造を禁止する法令で、1635年に武家諸法度に制定されました。
海外渡航禁止令:奉書船以外の日本船の海外渡航を禁じる法令で、1633年に制定されました。1635年には海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止しました。
大船建造の禁令が制定されたのは、江戸幕府が創設されて間もない慶長14年(1609年)9月であり、将軍は第2代将軍・徳川秀忠(ただし、実質的に計画したのは初代将軍で当時は大御所の地位にあった徳川家康)である。
この禁令は秀忠側の触状に家康側が添状を付けて補完する形で2度発令されて西国大名に向けられたものであり、500石(こく)積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限した。 ウイキペディア参照
寛永12年令の施行に混乱が見られたため、寛永15年の改訂で制限対象が軍船であることが明確にされた。このように安宅船に代表される内航型の大型軍船は廃止され、(諸藩による運用船を含む)内航型と外航型の商船は許容された。ウイキペディア参照
江戸後期(天保7年(1836年)に円覚寺に奉納された弁才船の船絵馬。
弁才船は17世紀後期までは100石から500石積が主だったが、19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積を主力とした。また2000石・3000石積の大型船も建造された。弁才船を含む廻船の大きさは主要な積荷であった米の積載重量で示される。石は容積の単位だが、ここでは石数に相当する米の重量を示す。当時、米1石は40貫とされ米以外の荷物を積む際もそれぞれの重さを換算して、廻船に積み込んだ。当初は実際に荷を積んで積石数を決めていたが、近世になると「肩廻し算法」という主要寸法から積石分を求めるようになった。