オフコースは再結成されない、
絶対に無理だといわれている。
しかし、ぼくはあきらめない。
必ずもう一度、年寄りオフコースを
みれることを・・。長七
オフコース。もう誰も語りはしない。
もう結成されることもない。 優しさの時代。愛の時代。 あの時代はどんどん遠く・・。
管理人のオフコースのブログ
最近更新していませんが・・
大人の雰囲気のツアー。
MYの夜景のバックがすばらしい
- 『スナップ・ショット—オフコースその夏まで』 藤沢映子 著
藤沢さんのオフコースのほんは
他にもあり、情報がでない
オフコースのことをしることができた。
このツアーは実に長く
ハードな日々が続いた。
伝説のひまわりの映像
ソフィアローレンの
「ひまわり」
の映画から引用されたもの、
多額のレンタル料をはらって
この映像がえらばれた。
すばらしいLP over
僕のこころにいまだに響く・・。
オフコースのあるファンのサイトは
永遠、製作中・・
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すごいテーマであるが
このページは「オフコースへの批判」を取り上げてみたい。
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オフコースが批判されていたのは、初期のころ「生意気だ!」「いうことを聞かない・・」と、関係者に裏口をいわれていたようだ・・。自分たちの考えを正直に述べているだけなのだが・・。
いまのアーチストの扱いと当時ではまったくちがうもので
とにかく扱いはひどかった・・。
というわけです。
オフコース批判はそのあと、オールナイトニッポンで人気者のタモリがギャグついでに「さだまさし」「オフコース」をターゲットとし、「暗い」「めめしい・・。」と批判されていたのだ、歌物まねでもして、
小田さんはたまたま深夜、仕事の帰りに車のラジオを聴いて自分たちが批判されているのを聞いて
愕然としたという・・。
オフコースカンパニーの関係者も
「やっと、人気が出てきたというのに・・。」
数年前、
さださんが「クリ約」にでたとき
しみじみ、「昔は暗いとかいわれましたね・・」
と小田さんに話していたのをぼくは
感慨深く聞いていた。
さださんはさらりとそのときはいってのけたが
実はさださんが批判されだして、相当憤慨し、嫌気が差し
「音楽を辞めよう」と毎日おもっていたそうだ。
いつマネージャーにいおうか、迷っていたそうだ・・。
それから、彼は「映画 長江」へと動き出すんだ。
佐田さんの生き様もすごいのだが、そこから再び音楽に回帰してゆく・・。
その話は別にしよう・・
オフコース?くらいねーー・・。
まねをするんだね、学生たちは、ことごとくオフコースファンは
女の子ばかりであったから、
男のファンは、隠れファンとなるのであったのだ。
スキマスイッチのアフロのほうが
これもまた、クリ約でどうどうと、おしげもなく、
「オフコースって女々しい感じがしましたね・・」
と言い放った。
小田和正はその瞬間、むかっ、とした感じを受けたが、
「どうでもいい」感じになって、
ああ、時は流れたんだ、
思い出の中にある「感情」になったのだと・・。
小田さんの偉いとこは批判されていたのに
タモリの番組にゲストででたことである・・。
タモリはいまはぜんぜん違うキャラであるのだが、もともとは
アングラであり、批判し適を作るタイプであった・・。
彼はさんざんこき下ろしたオフコースのリーダーが
普通の顔をして自分の番組に出てくれて、冷や汗をかいていた
それでも「こんどのみにゆこう・」とタモリを誘う小田さん。
小田さんの小学生のときの転校のいじめの経験をおもいだしていた・・。
それは、名門私学の小学校から普通の公立の学校に転校したことにあった。
その経緯は小田少年の母親への直訴だった。
その件はおいておいて、
いきなり、半ズボンのいかした小田少年はターゲットにされるのである、
しかし、小田少年は決して負けなかった・・。
母親のサポートもあり、彼は克服して逆に「親分」になるのだ。
相手の懐にはいり、相手の話をきき、自分の意見をとおす・・。
不思議な少年であった。タモリ騒動も普通ならボイコットする、
「笑っていいとも!」のテレホンショッキングのゲストに要請が受けても
でて、タモリが逆に冷や汗をかかせるほどの人物。
「また、一緒にのみにいきましょう・・」と、小田さんはタモリに番組でいうのである、
いじめられても絶対泣かない。
最後にはいじめていた子供を子分にしてしまうのだった。
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ぼくのなかのおもいではあの時代のオフコースの歌とともに眠っていた。
ダンボールの中にあった、オフコースのLP、その段ボールを開けたとき
数々の記憶がよみがえる・・。
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