大学前の階段、1982年ごろタオルが張られたがその前はコンクリだった。バスプールについてこの階段を上る。
コンパ開けとかはきつい階段だった。
2025年秋、喪中はがきが届いた。大学でスペイン語を共に学んだ、友人の訃報だった。
田野井宏幸だった。
1983年10月、場所まで覚えてる。外語館からでて、ピロティをすぎて右に折れて三叉路に向かう途中。
「もう、ぼくはすかいらーくにいくわ」と友人に言った。
驚いて友人は、
「入ってなにすんねん、大学出て皿洗いするんかいな!」
と、暴言を吐いた。
たまに口の悪いところがあった。
「おれはいつか、自分の店を持ちたいんだ」
そういう風に答えた。すかいらーくにはバイトから入った、
その後、もう友人のTのそのことばは、ずっと突き刺さっていた。
四月から西宮店に新入社員として配属されたが、トレーナーの坂野さんは、同期の井上の方の営業を教えるのが大変で、
ぼくは、放置状態だった、とうじ、トレンチ方式という洗い場で大変な量の洗い場だった。まさに、そこに二か月沈められた。
友人の言葉がずっと、聞こえてきた。
なんでこんなことせなあかんのやそう思いながら
手が剥けて、痛みにも耐えながら、ふやけた手で・・。
高校生の女の子が、
「おーい、新卒、ひやたんだしてくれや!」
ぼくがその言葉に激怒し、冷たんを投げつけた。
もう、こんな会社辞めてやる!と、
控室に呼ばれて、坂野さんに永遠説教をされた。
そひて、あちこち異動を重ね、店長になって、
ガストなんぞになって、15年目に退職。
そして、それから
2003年に今の長七食堂を開業した。店を出す金が無くて頓挫しようとしたが、なんとか開けた。
その次の正月。
携帯電話が鳴った。
東山のセブンの前だった。
ひさびさの友人田野井だった。
年賀で近況伝え、開業をしったのだ。
「おまえ、よかったな、ゆめがかなったな」
「ありがとう」
「あんとき、おまえ、いってたやないか!」
友人の刺さった言葉の19年後。
友人はおぼえていてくれて、一番喜んでくれた、
「大学出て、なんで、皿洗いするねん」
といった彼は
大学出て、卵焼きを売っていた。
しかし、頑張り過ぎて 体を壊して、透析状態になってしまった。
そこで失望の中、彼を担当する看護婦と知り合い、
そこで恋に落ちて結婚した。
そういう話を思い出していた。
あいつの口癖は
「みんな、えらなってるんやろうな」
だった。みんな部長や課長や、そんなになってるけど
自分はバイトだと、嘆いていたんだろう。
「おまえにはいい奥さんと、かわいい宝のこどもがいるやないか」そうぼくは励ました・。
田野井が死んだ。大学の友人たちに何年かぶりに連絡をとった。
そこで連絡が活発になった、ほとんど逢うことはなかった、連絡すらしてない。
みんなは葬式も4月に終わってるので、どうしようもなかった。
おそらく、あいつが最後に、みんなにしらせんでいい、喪中はがきでしらせろ、
と、奥さんに言ったんだと思う、
2017年ごろ、数人で上賀茂神社に集まり、下宿跡などまわって、大学に行った、
あれが最後だった。