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112. 番外編 松田マジック 004
松田頼一氏伝説、4回目
立地から戻され、すかいらーくは当時はガスト転換で大変なことになった。もちろん、立地は完全にストップし、立地でまだ営業できる人は店にヘルプにまわっていた。この1993年頃は記憶が不確かですが
転換部長という、いきばのないすかいらーくの担当となり、当時は、まだ、すかいらーくとガストを両輪でやるつもりだったのか、
しかし、どうも、ガストに自社競合ですかいらーくの売り上げは下がる一方、どんどん、なし崩しに
第二陣第三陣とすかいらーくをガストに転換させていった、その期間の担当らしい。
「店がどんどん減少する部署なんや」
ぼくに、言っていた、
そして、あの日がやってくるのでした、
1995年1月17日。
神戸を中心とした阪神淡路大震災。
あの前の日は成人式の代休で、正月から休みさえ取れない状況、
眠れずに朝を迎えると、どっかーん、もう揺れる揺れる。地震だ!あわてて、自分の店に飛んでゆくと、ラストの社員が中で叫んでいる、
「だしてくれーー!」
バックヤードの靴箱が倒れ、ドアを防いでいた。
「きたい!大丈夫か?」
「みんな、帰ったあとなので、でも、キッチンは大変なことになってます、」
「ガス漏れ、火の用心は?」
「ガスは絞まってます、火災も起きてません」
冬だというのに、なぜか、明るい、
社員をすぐに帰宅させ、車のラジオを聞いた。
まだ、震源地もわからない様子、NHKをきくと
震源地は神戸、あわてて、車にのって、店を飛び出し、実家に向かった。
僕の実家は神戸の激震地、電柱のからいたるとこでスパークをしていた、171号線を南に走ると、
なぜか、みんな引き返してくる、信号は全部ついていない。よく見ると、阪急の立体交差の道路がなくなっていた、地震で落ちていたのだ、
阪神大震災、店から車で飛び出し、実家に向かう、信号は消えており、朝まだ早いので、車は少ないが、交差点が危なかった。抜け道をいくと、あちこちでガス漏れ、避難する人が増えてきた、あの高速倒壊しのを 芦屋で出くわした ,呆然とした、おもわず、どこかの戦争の戦場化と。白バイが押しつぶされたトラックにかけより声をかける。青木あたりで大火事、大火事は暗くなる。炎は10メートルはだろうか、そういう火事を何カ所も見て、御影の実家に向かう。あたりはほとんど倒壊、、あのときはもうだめだと。いきて生きていて、そう願い、
親に大学行かせて貰い、遊びほうけて
「就職はすかいらーく」というと、猛反対。なんでそんなとこにいくのか?知りあいの会社にいけと、いう、
「これからは外食産業だ!」と、説得。
仕事と言えば、盆正月GW休みなし、親不孝。
そんなことをおもいだしながら、家につくと、奇跡的に建っていた。
「あんた、はやいな!」おかんは驚いていた、
近所の岩崎さんが夫婦で生き埋めになってるという、ぼくはすかさず、助けに入った、数時間でなんとか助け出せた。
その頃、住吉川の、松田さんは実家で悪戦苦闘していた。同じく、一人暮らしのお母さんが全壊家屋いた。声をかけても返事がない、完全に二階がくずれ、途方に暮れ、おじさんがかけつけ、ふたりで素手で解体してゆく、何時間もかかり、夕方になり、
やっと、見つかった、一階の居間でこたつにはいり、眠るように亡くなっていたという。
その後、ご遺体をだし、安置所の灘中学の体育館に運び、その横で何日も松田さんは母ともに、寝たという。ご遺体の確認で夜中に何人も懐中電灯で顔を照らされ、そのたび、起き上がり、相手は、まさか、生きているとはおもわず、びっくりしていたという。「何回もやで!」
その後、お母さんをどうするか、決まらないまま、
区役所にいくか、相手も大混乱、まだ、埋まってるひとも避難民は区役所を占領、
何日かたち、灘区役所のまえに、大量の木材が届いた、棺桶の木材。松田さんは、あたまにきたという。「道具もなにもないのに!どうすんねん」
区役所にどなりこんだという。
しかし、火葬場はパンク、もう、待てない、親戚のひとと相談し、やっとのことで、京都の山奥の火葬場で荼毘に付した。
断片的に聞いたことをぼくが思い出して書いてます、だいたい、ファミレスの社員は、ノーファミリーです。盆正月GW休めません、それどころではありません、家族、奥さんでさえ、放置です。
大角GMはぼくによくいってました。
「うちの家は母子家庭だと、いわれれるよ」
それはどういうことか、旦那がいつもいない、ということ、それでもえらい大角さんは、8月にむりやり四連休をとり、仲のいい土居さんとキャンプに子供たちをつれて、いっていたのを思い出す。
松田さんは、あのとき、どう思ったのだろう、
親が地震で死んで、助け出せなくて、親不孝だとおもったろう、悲しかったろう、しかし、それをぼくらには見せなかった。葬式もなく、家でお経をあげるというので、ぼくと、桶川ときださん三人で組み合いのひともきてお線香をあげた。
阪神大震災の式典になんども松田さんは参加されていたが病で数年まえからいけなかった、
公園の犠牲者の名前に松田さんの母の名前がのこっている。
数ヶ月たち、大川原さんから聞いた。
「松田さん、店長だって・・」
ええ、ぼくは言葉を失った。
「どこですか?」
「十三だ」
なんでまた店長をやらすとは、情けなかった