阪神大震災、店から車で飛び出し、実家に向かう、信号は消えており、朝まだ早いので、車は少ないが、交差点が危なかった。抜け道をいくと、あちこちでガス漏れ、避難する人が増えてきた、あの高速倒壊しのを 芦屋で出くわした ,呆然とした、おもわず、どこかの戦争の戦場化と。白バイが押しつぶされたトラックにかけより声をかける。青木あたりで大火事、大火事は暗くなる。炎は10メートルはだろうか、そういう火事を何カ所も見て、御影の実家に向かう。あたりはほとんど倒壊、、あのときはもうだめだと。いきて生きていて、そう願い、
親に大学行かせて貰い、遊びほうけて
「就職はすかいらーく」というと、猛反対。なんでそんなとこにいくのか?知りあいの会社にいけと、いう、
「これからは外食産業だ!」と、説得。
仕事と言えば、盆正月GW休みなし、親不孝。
そんなことをおもいだしながら、家につくと、奇跡的に建っていた。
「あんた、はやいな!」おかんは驚いていた、
近所の岩崎さんが夫婦で生き埋めになってるという、ぼくはすかさず、助けに入った、数時間でなんとか助け出せた。
その頃、住吉川の、松田さんは実家で悪戦苦闘していた。同じく、一人暮らしのお母さんが全壊家屋いた。声をかけても返事がない、完全に二階がくずれ、途方に暮れ、おじさんがかけつけ、ふたりで素手で解体してゆく、何時間もかかり、夕方になり、
やっと、見つかった、一階の居間でこたつにはいり、眠るように亡くなっていたという。
その後、ご遺体をだし、安置所の灘中学の体育館に運び、その横で何日も松田さんは母ともに、寝たという。ご遺体の確認で夜中に何人も懐中電灯で顔を照らされ、そのたび、起き上がり、相手は、まさか、生きているとはおもわず、びっくりしていたという。「何回もやで!」
その後、お母さんをどうするか、決まらないまま、
区役所にいくか、相手も大混乱、まだ、埋まってるひとも避難民は区役所を占領、
何日かたち、灘区役所のまえに、大量の木材が届いた、棺桶の木材。松田さんは、あたまにきたという。「道具もなにもないのに!どうすんねん」
区役所にどなりこんだという。
しかし、火葬場はパンク、もう、待てない、親戚のひとと相談し、やっとのことで、京都の山奥の火葬場で荼毘に付した。
断片的に聞いたことをぼくが思い出して書いてます、だいたい、ファミレスの社員は、ノーファミリーです。盆正月GW休めません、それどころではありません、家族、奥さんでさえ、放置です。
大角GMはぼくによくいってました。
「うちの家は母子家庭だと、いわれれるよ」
それはどういうことか、旦那がいつもいない、ということ、それでもえらい大角さんは、8月にむりやり四連休をとり、仲のいい土居さんとキャンプに子供たちをつれて、いっていたのを思い出す。
松田さんは、あのとき、どう思ったのだろう、
親が地震で死んで、助け出せなくて、親不孝だとおもったろう、悲しかったろう、しかし、それをぼくらには見せなかった。葬式もなく、家でお経をあげるというので、ぼくと、桶川ときださん三人で組み合いのひともきてお線香をあげた。
阪神大震災の式典になんども松田さんは参加されていたが病で数年まえからいけなかった、
公園の犠牲者の名前に松田さんの母の名前がのこっている。
数ヶ月たち、大川原さんから聞いた。
「松田さん、店長だって・・」
ええ、ぼくは言葉を失った。
「どこですか?」
「十三だ」
なんでまた店長をやらすとは、情けなかった