愛媛の一号店松山本町店が1988年(?)にオープン、それで栗林のGMだった大角さんがプロモーターになり、松田さんは丸亀から栗林のGMに、やっと、ぼくはその恩恵を受けて店長になれた、しかも、自分がオープンさせた店を貰うことができた。実に楽な店になった、なにしろ3人体制で年商1億すこし、店長のスタンスは動かない、評価面接点検カクニン。粗利だけわるかった、そこだけを追求してやれば改善し、事業部会議で事例発表を行った。
しかし、松田さんとおなじスタンスでやると店はとんでもないことになるので控えた、しかし、残業はほぼゼロ、店長手当5000円だけ、給与が大幅に減り、四等級店長は悲惨な給与。
その後、松田さんは、なぜか、埼玉寄居のGMに「飛ばし」人事がおこなわれ、説得を受けて単身、四国から赴任。僕ら子分たちも謎の人事でした、聞くと
幹部になるには全国異動をいとわないことを前提。知らない土地で実力がどれだけだせるか、
と、いうことだった、そういう人事はあちこちで行われていた、
寄居店もそんなに在籍せずに、今度はなんと立地開発部に異動、まあ、その伏線だったのだ。
営業と人に強い人間を、海千山千の部署に
同じく、徳丸氏も立地へ
しかし、ここで松田さんは僕の中では明言をはく。
戦略会議で、新店の候補地の話が進められ、その中でどうしても納得いかないことがあり、手を挙げてみんなのまえで意見を述べる。
「どう考えても、これらの売り上げ客数は多すぎます、その予測には甘いと思います、現場が苦労するのがわかってますから意見を言います」
おそらく、会議はしーんとなったのだろう、
千葉専務が立地戦略会議で、言ってはいけないことをいわれ、内心激怒したのだろう。出せる店が限られてしまい、目標を達成できないからだろう
松田さんもごますりや動きまくることは嫌なひとだったから、もしかして、喫茶店でさぼっていたかもしれない。即座に立地を追い出された。
1990年頃から1994年までの新規出店は計画としては毎年40から50店舗出す目標を掲げていた。
大企業になると、四半期ごとの点検報告と半期ごと年次予算の目標などをきちと掲げ株主投資者に報告せねばならない。
会社がどう利益をだすか、成長戦略を達成するか、
銀行から融資をうけつつ、返済し、また、融資を受けつつ拡大する。
当時、バブル以降、そして商品値上げやグルメブームなどの影響で前年比を落としており、そのカバーを新規の店の売り上げでなんとか埋めていた。
なんとか、店を出したいのである。
しかし、問題は賃料なのであります、いま洋服の青山やアオキなどの立地は恐らく過去にすかいらーくも交渉し、出店しようとしてみても、賃料が高いと、オーナーたちはうんとはいわなかなった。
結局地方都市のローサイドを探すしかない、正直に売り上げを予測していては出せるわけがない。
「やってみないとわからない」というのが新規出店のセオリーになっていた。
しかし、のちにこれらの問題が債務を膨らます。
どう考えても堅実な経営はできない。あのころも恐らく今も、人件費減らせ、粗利を挙げろという至上命令は、無理な出店のあおりなのであります。
無理な出店をしていない企業のほうがいまのような非常時には生き残りやすい。
松田さんは、予言したのです、そういうことをしていたらまた現場に負担をかける、
しかし、企業はいわば縦社会、刃向かう者は
切腹左遷です。 まだまだ伝説の男の話は続きます。30年まえの話20年まえの話ですから、話半分でお願いします。
ぼくも千葉専務にはあちこちでお会いし、新店をつくる重要性、などをいわれました、なにしろ、新店を連続して5年もやっていたので、
しかし、本音はしんどいだけです、やりがえはありますが、評価はおなじでした。 続く・・。
まえのページ
112. 松田伝説02
最後目次