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109. 番外編 松田マジック
OBであります松田頼一さんがお亡くなりになりました。
松田さんは1981年に中途で30歳で入社されました。3年か4年で店長に成られました。当時、山陽事業部では「七枚伝票」という仕組みを開発され、それがのちにペースメーカーという伝票をつるして回り続けるものに繋がりました。どのみせも、ラッシュタイムはドパンクしており、提供率も低く、最大遅れ下手すりゃ30分なんでありました、原因のひとつに、オーダーを読み過ぎるということでした、スーパーキッチンをへてガストのエリアに伝票を出力させるまえは、オーダーです!の声とともに、エリアが返事をし、IN作業をおこない、報告をするという手順。テーブル数が多く、一気に入店、一気にドラムに
オーダーをとうす、三枚どうし、キッチンでシェフが怒ります、一気にとうすな!もうFK戦争でした。
もう、デシャップ台の上は料理がばらばら、ライスはばらばら、サラダもどこかわからない、ポタはさめる・・。そういう混乱のなか、まつださんは
「一枚いれて、一枚だす」七枚以上読まない。
伝票を寝かせておく。この標準化作業を導入し、どこの店でも野島部長がやるように、と、導入されました。
発想が違いました、いわゆる新卒のすかいらーく馬鹿のぼくは、もう歴代の店長やSVにいわれるがままです、そういう中、視点がちがうのは驚きでした。
そして、とうじは、「とっつあん」と呼ばれていて、みんな慕っていました。人間の魅力が強いひとでした、あんなに人のこころや機微がわかるひとはいない、と思ってました。
数年前、おそるおそる聞いて見て納得しました、
親の代からその筋の組の親分だったそうです。
四国では、瀬戸大橋が出来て、屋島のオープン店長として赴任。ここでもあの大橋ブームのなか、
一時間客数100名を10時間続ける快挙を成し遂げました。そして、今度は丸亀のオープン。
そこでぼくは広島から副店、キッチンのあたまとして赴任、松田さんとの初めてのおなじ店でした。
松田さんのポリシーがあり、
「なんで、店長がそんなに働くのか、自分が動かなくてもできるようにして、自分は楽をするのだ!」
という松田マジックという言葉でさえ生まれました。しかしです、これをまねしようと次々とほかの店長は楽しようとしましたが、いずれも失敗です、店はぼろぼろ。思い出話はつきません
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