89. 夢野 05

基本的に店は本部にとってどうあるものか、お客さんにとってどうあるものか
従業員にとってどうあるものか
それぞれ、ぜんぜん違うものである。

もちろん、クレームも苦情もなく、毎月、売り上げを達成し、利益を上げるのが
本部にとっては有り難い存在である。
夢野は、クレームや苦情が起きまくり、売り上げはいいものの、利益はでにくい、
従業員も安定せず、モラルが低いものであった。

1995年は、なんとか正月を迎え、ヘルプを出せるまでになっていた、
ぎりぎりふたりでやれるかどうかのところで、二番手の、キダさんが抜かれ
大阪の新店にいかされることとなった、
新卒の本郷も抜かれ、翌年は、
「また、こいつの面倒をみてくれよ・・」
といういつものパターンで、Oくんが来ることとなった。
1996年は、本当に震災景気と、無理矢理の2人体制と、Oくんで、大変な年となった、
日曜日祭日祝日は、もちろん、ゴールデンウィークもお盆も年末年始も
朝の5時過ぎに店にいき、上がれるのは22時か23時だった。
17時間労働であった、もっとすごい残業をしてる店長もたくさんいたが
5等級という役職だったので、もちろん残業はつかない。
考え方を変えて、そういうのを改善すべきであったとおもうのだが、
朝いちで、どかんとスタンバイをし、その分労働時間をディナータイムに使いたかった。
もう、フロアーに関しては、どうやって生産性をあげるかについては
お手上げであったし、バイトでくる人たちも、今ひとつであった。
ランチもディナーも欠員して、ナイトは不安定。
寺坂時代の準社員は強いが、癖がありすぎた。
訓練により、無駄のない速い動きができるかどうかは限界があり、
やはり、本人の資質が大部分を占める、

Gさんという高校生の女の子はよく動いてくれてた、
しかしだ、嫌なやつが居て、Gさんのことを知るやつが、無許可でバイトしてる
と、高校に通報したのだ。
どういう神経かわからないが、とりあえず、学校の生活指導の先生が
調べに来た、
しらを切って、いないと、嘘をついた。
それから、数ヶ月経ち、また、学校に通報された、
今度はぼくが先生と対決することとなり、
話し合った。
「いるのは、わかってるんですが、出してもらえますか?」
先生はぼくにそういった。
「出せません」
「出してもらわないと、困るんです、まあ、そういっても、店長の立場としては
困ると思いますが・・」
「でもね、先生、100歩譲って、校則があるのはわかりますが
そんな風に学校に通報する同級生のほうが異常なんではないですか?」
先生は、だまり
「それでも、通報されたら、こうやって調べていかないとダメなんです」
「それは匿名なんですか?通報したのは・・」
「いや、だいたい、わかってます・・」

ぼくは、人手不足のなか、Gさんが抜けるのは本当につらいものがあり、
彼女も、父親と2人暮らしで、金銭的にも苦労してるみたいであり、
先生に学校の許可をとれるのか、聞いてみた、
「まあ、考えてみますが、基本的にバイトは禁止なんです」
もう、話にならなかった。

ぼくにしてみれば、これだけ厳しい環境のなか
遅刻するな、休むなと、ルールもきびしくして、社会のルールまで教えて
働くことの大変さを学、よっぽど学校よりましだと思った。

「ぼくらはね、先生、バイトの子たちに、いろいろ教えて
それで、なおかつ、給与まで払うのですよ、先生は、逆に給与もらってるんでしょう
悪いことなんか何一つしていませんよ、まあ、本人に許可を
取るようにいいますが・・・」

先生は帰っていった、
Gさんは、涙を流しながら僕の話を聞いていた。
結局、許可も取れず、キッチンで働くか、
という話にもなったが、辞めていった。

とんでもない通報するような得体の知れないやつがいるのには
本当に参った。

またもや人手不足になり、しかし、高校生は許可なしでは採用しないことにした。
でも、それも後考えれば、無理な話だった。

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