86. 震災後の立て直し 神戸夢野 02

伊丹瑞穂では4年すこし居て、自分では最後にはあまりいい状態ではないものであったが、オープン前には、お客様の家にあやまりにゆくようなクレームは
起こさないようにしようと努力した。
丸亀でも観音寺でも瑞穂でも一度もなかった。
7月の神戸は、木造家屋の公費解体が一段落し、鉄筋の大型マンションの
公費解体が行われ、解体屋は大もうけ。町中はひどい環境。
仮設住宅建設が進み、学校の避難民が減りつつあった。
まだまだ、ひどい状態であった。

震災後、夜の治安が不安なのと、夜のメンバーがいないので
震災を離れてルにもかかわらず、兵庫県の店は5時閉店を
短縮し2時になっていた。
そもそも、どの店も5時閉店の人員が確保されておらず
なおかつ、神戸籠池にいた上田店長が、直訴状を社長に送り
被災地での深夜営業の無謀さを訴えて、認められた。
江戸幕府と同じで、組織の流れを無視した直訴は忌み嫌われるもので
あった。

1995/07/07
引き継ぎの日だった、瑞穂店では。オーナー様との挨拶まできちんとしていたものの、やはり、寺坂店長は一言。
「まあ、適当にやろ・・」
といって、兵庫駅南店にふたりで挨拶ついでにごはんをたべにいった。
そこで、いかに、神戸夢野店は難しいかを聞かされ、
早く異動、早く逃げないといけない、ようなことを言っていた。
なんのことをいってるのか、おかしなことをいうものだとおもった。

かつて、寺坂さんは、大学の先輩でも有り、研修前に西宮に訪問したときに
「イタリアンサラダの品目料をのべよ!」
とか、のっけからわけのわからんこといい。
佃では、ごうてんの暴力事件で世話になり、三国でも世話になり
弁天の新店の準訓では佃を占領し、
広島でも僕が去り、寺坂さんがあとを五日市でがんばった。
よくよく思い出せば、いろんなことが重なったものであった。

当初、神戸夢野店は、1985年、イエスタディとしてオープンし、
客タンが伸びず、客層も悪く、1990年にすかいらーくに転換。
そのばかでかい客席160はあったとおもう。
その店には、当時は評価の高い鈴木店長が赴任された。
鈴木店長はだれもが立て直せなかった兵庫駅南店を立て直し
須磨でもがんばり、西宮の母店の店長なでなっていたひと。
バブル全盛期と893全盛期の神戸夢野店は数々の苦情と
商盛期のとてつもない客数で、できのいい社員が何人も挫折し
退職していた。
あるとき、店長会議で、鈴木店長が部長に
「神戸夢野の社員だけは定期的に変えるように考慮してほしい」
と、訴えたが、部長はまったく耳を貸さなかった。
ぼくも、何をいってるのか、と、疑問に思っていた。
しかし、1995年から1998年の12月まで自ら経験することにより
大変さを思い、自らも退職してしまったのである。
しかしだ、問題の多い、くせのあるお店は、評価されることもないだろうが
力のある店長には腕試しである、

ぼくは、決して辞めるつもりなどなかった。


今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

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