87.  神戸夢野 03

寺坂さんは嬉しそうに夢野を去り、震災開けでひと月もいず
僕がその後を負うくとなった。あの丸亀でバイトに来ていた今田さんが結婚し
キダという名前にかわり、二番手でがんばってきた。その最初の彼女の苦労は
相当なもので、ぼくにも「はるばる相談にきた」ほどであった。

当初は鈴木さんとの折り合いが悪いのか、くせのあるバイトと折り合いが悪いのか
忘れたが、その後、寺坂さんが来て、ぶっつぶすのであった。

僕が来て、すぐに大川原さんから補強で新卒の本郷くんが尼立ちから異動。
3人体制となった。当時はどこも2人体制であったのだが、遅れていた。
ランチも欠員ディナーも欠員、ナイトも欠員。
しかし、いくと、震災半年もたっているのに、義捐金をもらってないとか
言い出す人が多かった。
今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません




ランチは欠員であるから、新店と同じように朝からスタンバイで入らないと
いけない。これは半年以上続いた。震災復興の作業員が山のように押し寄せ
いつも満席、アイドルも満席が続くことがあった。なんとか、3人体制で
1人休ませようとすると、ランチは社員を一人でまわすことが大事である。
満席でウエテイングが続き、フロアーで走り回っていると
「おまえはそれでも店長か?」
「店を潰すきか?」
「私ら人間扱いせんのか?」
と、ひとりのパートの主婦が僕に対して毒を吐き始めた。
ぼくは、なんのことかわからず、聴いていたが、
とりあえず、ラッシュがおわり、控え室に呼んだ。
話をしようとおもったのだ。
「なんで、あんなことをいうんですか?」
パートのおばさんは、当初、なかなか座らず、控え室の角にたっていた。
いきなり、謝ってきた。
「ぼくはこの店のことを会社に任されているのですが、なぜ、あのようなことを
いうのですか?」
改めて冷静に聞いた。
黙ってこたえない。
「もう、わたしくびですか?」
ぼくに聴いてきた、
ぼくは、なぜかわからず。その件はもう一度聴くことにして
その場を終わらした。
数日経ち、電話があり、辞めるという、
ぼくは、やめないでください、なんでああいうことを言うのか、改めて聴いた。
すごく反省してるという。訳がわからなかった。
そして、それから休みだし、少し経って
旦那さんと一緒に夜に、しかも酔っ払って来た。
「やっぱり辞めます」
ぼくは、わかりましたと答えて、辞めていただいた。

暴言パートは一体何だったのか・・。
それから、違うやつが再びディナーであったが
ヘルプの人が、入店でどんどんお客さんを入れてるのを見て
「店を潰すきか・・」と、ほざいた。

あ、また言った。

夢野はぼくが行ってから売れに売れて一年二年と前年比を大きく伸ばした。
本部も事業部長も首をかしげた。回りの店はどこも前年比を落としてるからだった。

ずっと、あと、ぼくはあっと気がついた。
寺坂さんは常に入店規制をし、お客様をいれないようにしていたのだ、
神戸夢野はでかい店で奥に二つ部屋があり、そこの電気を消して常にいれず
しかも、すぐに満席にして、案内しなかったのである。
鈴木店長時代は、ガスト転換で客数が1400名というすごい数字を出しながら
生産性をだせなかった、労働時間を使いすぎるという、あくまでも会社の指標であるが
寺坂さんは、生産性をだすがためだけに、少人数で入店規制をしながら
生産性の数字だけはだしていたのだ。

ぼくが、そのことに気がついたのは相当あとであった。
まじめに正攻法でやって、それどころではなかったし

ランチメンバーのうち、フロアーもキッチンも再び何人か辞めた。
寺坂さん時代にも辞めさせたにもかかわらず、しんどい、という
理由で辞めた。ぼくは覚悟ができていたので、
再び求人し、新店でやってきたように、何度モニもナルか
ランチを朝から教える羽目になった。
みんな辞めるなか、残ったのは、キッチンのOさんとAさんだけ
フロアーも三木さんひとりになった。