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99. 夢野 16

1997年頃だったか、長い間あった等級制をの無くすという話が出てきた。
いままで、あった人事制度で、高卒は「一等級」大卒など「二等級」から
スタートし、それぞれ給与と手当が変わるというものであった。
その頃僕は、やっとのこさ、五等級になっていた。
二回か三回ほど、落とされ、そのころは五等級に成れる人はどんどん減少し、
やっと、なれたのであった。
三等級は、2、3年でなれる、副店長クラス、さほど給与も上がらない。
四等級は、店長になり、まだ、残業手当をつけてもいい、ボーナスは
少し上がり、40万かその程度であった、五等級になると
ボーナスは100万前後になり、しかも、住宅手当がたくさんつく。

しかしだ、右肩上がりできた会社が、だんだんと、成長が鈍化し
いままでのような人事体系では、無理が出てきたのだろう。
それと、相対的な評価制度を作り上げようとしていた、
店長を全て、成績順に1番から1000番までつけるという。

この相対的な人事制度はあの当時、いろんな会社がリストラの一環として
実施し、ぼろぼろになった経緯がある。
ぼくも、この説明会にいって、
もう、だめだ、ついていけないわ、と思った。

説明会は大阪で行われ、阪神電車に乗っていた、
梅田駅について、ぞろぞろ、あるいてると、
見たことのある女性が・・。
佃で世話になった、準社員の中田さんであった。
「いや、ひさしぶり!」
「もう、出世したのやろうな?」
と、聞かれ、
「まったく、だめです」
と、答えた。

再会を喜び、その場を離れ、説明会にいった。
説明されても、このさき、業績をあげて、状態基準をあげて
という話は、まだまだ、がんばれ、という話。
個人主義的な評価制度は、ぼくはかなりの疑問であった。
みんな、人には強み弱みがあり、いいところもわるいところも
あり、それらをカバーし、協力しあい、やることが
この集団的な営業活動はありえない、と思っていた。

自分さえよければいい、人を蹴落としてでもやります。
そういう米国的な現実主義でないと、ビジネスとしてはだめなんだ。

要するに、僕は甘くて、考え方が古い、
という風にナル、33か34歳で、なんで、そうなるのか、
僕自身もあのころの自分に、見えない未来や道に
絶望する思いを持ち始めていた。

恐らく、トップ経営の横川チームは、別のことをしたかったのだろう。
店長に権限と力をもってほしかったのだろう。
しかし、それは、伝わらない。
歪んで伝わり、まるで、受験勉強の偏差値で
上から何番目の店長なんです、とか、言い出すんだろう。
そんなもの、どんな店かわからずに、利益がでやすい店
人が素直で採用しやすい地域。など、数字には表れないものが
その店にはいっぱいある。
まじめにがんばっても、ぜんぜん善くならないお店。
そして、店長をスターランクにして、星がなんこつくか
それでレベルをどうのこうの、するとか言い出した。

全国一の店長は、その年は、徳島佐古の日比野さんだった。
彼をよく知ってるけれど、そんなにすごいひとか
学ぶべきところがたくさんあるか、といったら疑問であった。

震災時に三人いた社員を2人にし、
寺坂さんのように入店規制をせず、
ぼろぼろの欠員で、やったお陰で
翌年のその業績評価に全国10数番目の評価を得た。
しかし、監査得点が悪すぎるということで、スターランクは下になった。
しかし、全国のなかで表彰があり、業績配分として
あらたにボーナスがでて、米国研修旅行を無料参加ともなった。
東京まで、いって、もらい、
でも、米国へ行くのはお断りした。
そんなもの、いってる場合ではない店の状況であったからだ。

昔よくいっていた、バイトや社員に
会社を批判したり、人の悪口や文句をいうようになったら
辞めたほうがいい、
かくゆう僕もこのころから数々の施策に、やりかたに
頭にきており、
この人事制度で、腹をくくったのを思い出す。
「辞めてやろう!」と・・。

そしてまた、クレーム全額無料制度というのが始る。
その件でも、むかつくのであった。