オフコースが最初いた事務所、パシフィックエンタープライズが事業展開をするといことでそこにいたグループたちが脱退していったのだ。かぐや姫もいた、彼らはユイ音楽工房に移籍、加藤和彦、杉田次郎はそれぞれ自分の事務所を作った。
オフコースは両方から誘われた。杉田は、友人の京都時代からの上野氏にマジメントを頼むことになった。上野氏は大阪の高石事務所(現 音楽舎)

上野氏 1950年生まれ、18歳の時、自分の部屋に貼ってあったフォーク・クルセダーズ解散コンサートのポスターを見て、高石事務所(のち音楽舎)にアルバイトの問い合わせをしたところ、正社員ならと言われ、その日のうちに入社。はしだのりひことシューベルツ、はしだのりひことクライマックスのマネージャーとなる。 4年後、(有)サブ・ミュージック・パブリッシャーズを設立、杉田二郎、オフコース、ザ・バットボーイズ、シュリークスを手がける。その後、ベイシティーローラーズ、ロッドシュチュアート他の外国人タレントの招聘を経て、1979年(有)オフコースカンパニー入社、1983年再び独立し、(株)上野カンパニーを設立、安倍泰弘、鈴木祥子、ZELDAを手掛ける。1991年(社)音楽制作者連盟理事・事務局長に就任、1999年常務理事長に就任、現在に至る。  なんといま、ジャスラックのえらいさん。そこから拝借しました。

※フォーク・クルセダーズ
1965年北山修、はしだのりひこ、加藤和彦、平沼義男、井村幹生、芦田雅喜の大学生5人で結成されたがプロは1967年「帰ってきたよっぱらい」「あのすばらしい愛をもう一度」など伝説的なヒットをだす、近年、アルフィーの坂崎幸之助と期間限定で復活したのは記憶にあたらしい。彼らのヒットは、のちの関西からのグループ(アリス、赤い鳥、
ジローズ)などが、出やすい環境を作ったといえよう、偉大なるグループであった。





1973年2月1日、
サブミュージック・パブリシャー・オフィスは、社長杉田二郎。役員、小田和正、鈴木康博、上野博でスタートした、

上野氏がオフコースを先導し、解散においこんだ張本人という話をどこかのサイトで見た。実に奇妙な話の展開だ。

小田さんは、オフコースが売れて稼げるようになるために、小田中心でいくべきだと、
上野氏からいわれたのだろうか?

オフコースがそもそも、形にとらわれることなく音楽のいろんな試みをしようとしていた、フォークからロックになってしまい。3人のハーモニーから二人ノハーモニーになり、
5人になれば、どうしても前に一人立ってイメージを作り上げていかなかればならない。

上野氏は、なぜ、マジョ氏といわれるのだろうか?不思議なひとだからだろうか・
しかし、経歴を見れば判るように、10年近く、オフコースと関わった人間である。
あまり、オフコースファミリーには、いい印象がなかったのか、「はじめの一歩」には、あまり上野氏のことは、書かれていない。

上野博氏