SOMEDAY

オフコースが大好きで、聞きまくっていたが、当時は、ほんとうにすばらしい時代で
いまでも忘れない。「 アリス 」 アリスは、ドラムのきんちゃんが本当にうまく。当初のオフコースのレコーヂングにも参加している。アリスを中心とした、飛ぶ取り落とす勢いのヤングジャパン、その中にも海援隊や岸田智志、シグナルなど、いっぱいいたが
やはり、深夜のラジオがヒットとつながる場合が多い、パーソナリティ。人間性を重きをいたものがおおい。その中でも松山千春、中島みゆきは、ANNでの活躍はすごかった。オフコースは、こういう活動をしなかったために、閉塞状態になったとも考えられる。
とりあえず、同時進行で、日本の音楽の黄金時期がこのときであったと思う。
アメリカの音楽やビートルズの音楽の影響を受けてたものが、また、ベトナム戦争や
アメリカソビエトの冷戦時代とか、反戦や平和、時代が暗かった、
四畳半フォークや関西の大学からおこったカレッジフォーク、
そういう中で、鈴木や小田も過ごした。やがて、同時ころに、吉田拓郎や井上陽水
また、ガロ、なども関東からヒットを飛ばした。関東と関西は互いにまだ完全に融合してない時代。ユーミンも最初は、フォークからだ。東芝EMIはいまや、、ぜんぜんだが、
当時、こういうのをまとめて新しい形で売り出したいと。「 NEW MUSIC 」 というジャンルを無理やりつくった、
とうじ、EMIには、ほとんどの日本の若者が注目するアーチストを独占っしていた、。
しかし、鈴木がオフコースを脱退したとき、そのときが歴史が動いた。
「 ニューミュージック 」は、終ったのである。個人の意見ですよ、
ぼくも、小田さんには悪かったが、封印してしまった。
もっと、かっこいい音楽、涼しげな、環境のよさ様な音楽。
当時、クーラーの普及率もひくい、1980年代初頭、
すごいヒットが現れた、大滝詠一 の 「ロンバケ」である、1981年大ヒットしたこのLP
は時代を変えたといえよう。ここから波及し、ナイアガラトライアングルで伊藤銀次、
佐野元春をぼくは知るのである。衝撃手であった。かっこいいのである、旋律も歌も
歌い方も、ぜんぜん、ちがうのである、
佐野元春のLPを聞きあさり、SOMEDAY がでた。当時、暑い暑い夏の京都の下宿で
扇風機をかけながらヘッドフォンで聞いていた。
これらがスタートになり、シティ波POPSへと変貌を遂げてゆくのである。

やっさんも、そういう音楽をめざしたのか?小田さんも英語バージョンとかでアメリカに
いこうとしたのだろうか?
ぼくは、彼らの音楽は、彼らのみぞ知るオリジナルであり、源流であるとおもう。
小田さんは映画監督もしたが、おそらく、恋物語やいろんなストリーを創作するのがすきだったんだろう、情緒的な詩でかつ、情景が浮かびやすい。
小田さんの歌を聞くと、イメージが何時も沸く、情景が映画のようにながれてゆく。

時代を作った人間が時代に乗り遅れて、又乗ろうとしても、なかなか乗れないもの。

そんな中でも、オフコースを応援するひとはたくさんいた、
オフコースは4人でがんばり、昭和という時代のまく引きのような形で、東京ドームで
終った。彼らの心境はいかなるもなだったんろう、
小田さんは、最初から、東北大会のときから、ずっと足掛け20年、やってきた。
いろんなこともあった、売れない時期が長かった、

佐野元春のサムデイを聞くと、大学の時の進路に悩む自分を思い出す、
オフコースの歌を聞くと、中学生の初恋、高校生の悶々とした時代、なれない大学生活のはじめのころのあわいおもいを思い出す、

深夜放送の、DJ鶴瓶がいつも、オフコースの曲を流してくれた。
彼から学んだ歌が多い、眠れぬ夜に松山千春のANNを聞いて励まされた。
彼がANNをおろされたときはすごい悲しかった、神戸からサッポロのAMラジオを雑音を聞き分けながら聞いていた、どうしても千春に会いに行きたくなり。20歳の時の夏に
会いに行った、足寄に言っても、富良野にいけといわれ、美国YHでやっと会えるとおもったらあえなかった。そういう思い出がある、彼の個性が強烈だった、透明感のある、綺麗な純粋な彼がすきだった、ラジオがらみですきになったのだ。

繰り返すが、オフコースたちとは、なかった。歌とコンサートだけであった。

ラジオから聞こえたモノラルの音楽たち。受験戦争や大学のときにテレビもなく
聞いた音楽は、いまとなっては宝のようなものだ。
大学をでて就職して、聞く暇も聞く気力もすこしずつなくなり、
年末のユーミンのCDばかり気になって。