番外編 吉沢さんに捧げる。

まだまだ、書き足らない、語り尽くせぬことが多い。20年前30年前
そんな昔のことと思わない、
いまも、そのことは、それらのことは、
忘れることができない、

そんな中でも、吉沢さんほど、いろんなことですかいらーく入社から
辞めるときまで、と、いっても、辞めるときは何も言わずに辞めたが、
いろんな思い出が残る、人情深いひとであった。

入社したときは、地区担当という立場で、まだ事業部制もなく、
関西地区の中の、西宮周辺のお店を担当し、ぼくが入社して西宮店に配属されたときに挨拶した。
いつも、眼鏡越しに笑い、えくぼがでたおじさんというかんじだった。
「おさたにー、なにやってんだよー」
と、頭をかきながら、
「だから、ああしろと、いっただろうー」
そういう声がいまでも聞こえてくる。

伊丹桜台では
いろんな失敗をしていた。
108型のお店では、キッチンの声がフロアーまでよくとおる。
昔のキッチンは、いわゆる、気合いで、元気に
かけ声、返事、が重要で。
オーダーが入ると
「オーダーです!」
と、デシャップが叫ぶ。
その、言い方が間延びしてたり、元気がなかったりすると、
吉沢さんは、必ず、最後に言ってきたものだ。

「おさたにー。今日は元気なかったなあ・」
あるいは
「おさたにー。今日のオーダー読みは気合いがたらなかったな・・」
あるいは、
「今日はよかったな、料理もでたな・・もうすこしきれいにな・・」

入ってすぐ、西宮越水にヘルプにぼくをGW行かせたり、
夏の間伊丹桜台にヘルプにいかせたり、あちこち丁稚状態であったので
ぼくは、
「吉沢さん、一つの店にある程度、いさせてください」と懇願したことがある。

ぼくの願いを受けた吉沢さんはごうてんの佃に配属。
地区担当制は廃止され、その後少し立ち、
事業部制となり、吉沢さんは運営サービス担当となられた。
まあ、吉沢さんは、
「雑用みたいなもんだ。」
と、僕に言ってた。

佃を去り、三宮にぼくが配属され、
バイトの大学生が、お客さんにコーヒーをぶっかけ、
すこし、大きなクレームをおこしてしまった。
そのときのことは、別項で割きますが、
運営サービスはクレームも担当していて、
厄介なクレームをいとも簡単に解決されたのには
驚いた。
それは、コーヒーを鞄にかけてしまい。
その鞄は舶来のもので、高価なもので
相手は若造でしたが、
「これのどこにコーヒーのしみがつきましたか?」
と、吉沢さんは聞いて、
相手はわかっていなくて、
どれがどの汚れかわからないものは新しいものを
買い換える弁償はできません、と、言い張り。相手を納得させた。
僕に帰りしな、
「あんなかばん、受け取ってはだめだ、その場で拭いてとれてるし
皮でしょ」
と、ぼくにいったが、内心、僕の初期対応がよかったので
解決がはやかったんではと、密かに思った。

それから、吉沢さんは立地担当に移動され、関東や千葉などをし
再びあうまでは時間が相当たってからだった。

1993年秋、ぼくのいた、伊丹瑞穂店が、ガスト転換になることで
僕と社員が都島のガストに研修にいった。
そのとき、吉沢さんが、なぜか、ガスト研修のプロモーター兼トレーナーだった。
「おさたにー。ひさしぶりだな、まだ結婚してないのか?」
嫌みをいわれつつ。
吉沢さんのスタイルをみて、驚いた。痩せていたのだ。
ぼくは内心、相当苦労されたんだろうと、思った。
「吉沢さん、立地の仕事はどうしたんですか?」
そう、ぼくが聞くと、
本部の方針で、新店舗の中止、全勢力をガスト転換にかけてるので
この仕事をしている、と、おっしゃった。

ガスト転換後、
それから、数年たち、ぼくは、最終店舗の神戸夢野店にいた。
そこに、今度は、立地担当でなんどか、オーナーさんと
会合されいるのをみかけ、
そんなこんなで、今度は書類を持って
「監査にまいりました!」と、監査の仕事もされるようになった。

吉沢さんが監査されたのは、僕の店では二回だった。
当然のごとく、ぼろぼろの店だったので不合格。
2回目のときは、
伊丹瑞穂を監査してから、神戸夢野にこられた。
「おお、おさたにー。おまえに、あいたかったんだ!」
なんで、そんなことを、いわれるのか、わからなかったが
ぼくのまえの、オープンさせて4年もいた伊丹瑞穂で
ランチのひとと、延々と、僕の話になり、
「あれだけ、おさたに、したわれてるなんて、しあわせだよ」
と、いってくれたのですが、ぼくはすごくすごく複雑な感情で
この感情は別の項で述べますが、
とりあえず、吉沢さんは総合監査を始められた。

ぼくは、いつものように、営業をして昼過ぎに
また、休憩していた吉沢さんと話をした。
「おさたに、大変だろ、この店、きついな?」
「あ、はい、まあ、力不足で・・」
ぼくは、まあ、いまおもいだせば、会社に洗脳されてるだけで
自己責任とおもってるが、いまは、そう思わないが
とにかく、厄介な店であることは確かだった。
「西山な、あいつ、加古川駅南の店だって、あそこはらっきだなー」
吉沢さんが何を言い出し、なにを考えてるか、ぼくは
推測した。

要するにこうだ、
もらった店で成績はほぼ決まる、しんどい店では損なのだ。

決して、そうは言わない、

ぼくは内心、そうみんな思ってるのか、と、驚いた。

吉沢さんはこうもいいだした。
「この店はイエスタディからの変換で、でかいから、サービスのタイミングなんてのは通常の店の計測では全部×になるんだ。」

ぼくは、そんなことはわかってます、と心の中で思った。
何人も監査人が、不合格不合格と、スタンプを押し、
不合格ながらもパンクしながらも、阪神大震災の復興景気で
しかも、人員が不足し、ぼろぼろの営業で、回すのが必死で
残業もつけられず、朝から晩まで働いて
それで、不合格という審査の必要性はどこにあると
怒り心頭で、これもすかいらーく辞めた一つの理由です。
監査対策シフト、というマニュアルを自分の店で作り
監査が着たら、まず、こうしろ、ユニホームは着替えろ
とか、そういうことをやって、成績を上げて
それがなんになる・・。
まあ、このことは最後のほうに述べますが

「おさたになー、俺も監査もうおわりで、また立地にもどるんだ、
もう、おまえの店を見に来る前に、決めていたんだ。
あの冷凍庫あるだろ、冷蔵庫の奥にある、ぼろいやつ、
あそこの床が、床の掃除、溶けた氷の始末。
あれが、きちんとされていたら、合格させるつもりだった。
おまえ、掃除してたから、合格させてやるよ、ぎりぎりの802店で」

ぼくは、驚いた、まだ、監査おわってないのに
合格だ!とか、いう吉沢さん、

人情だったのか、ぼくへの励ましか
神戸夢野店は総合監査合格した。
吉沢さんのお目こぼしで、

ぼくは、辞める決心をしても、世話になった人には
連絡しなかった、不義理であった。

数年前、ぼくにフロアーを教えた、戸城さんがぼくの
店に来た。

吉沢さんは、子供ができなくて、やっとの思い出できた子供が
死んでしまい、奥さんが後追いでなくなり。
吉沢さんもあとを追った、という。

ぼくは、その話を聞いて、家族を犠牲にして、すかいらーくで
どんな仕事でも与えられたものをいやといわず、こなし。
その。最後か、こうか、あまりにも酷でないか
ひどくないか、そう、思った。

あの笑顔で、あのえくぼで、ぼくをしかり励ましてくれた
吉沢さん。
遅いですが、ありがとうございました。
ぼくは、あなたを忘れません。

奇しくも、この記事を書いた翌日。
吉沢さんが開発した店にごはんを食べに行った。
家族連れ、いろんなひと、
みんな、楽しくご飯をたべていた。
吉沢さん、あなたが残したものがここにあります。
家族が喜んでいます。
そこにいる、従業員も、お客さんも
そんなことは誰も知らない。
僕だけが、ひとり、思い出していた

この項終わり。2018/03/22





今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、