(旧)すかいらーくの思い出 本文へジャンプ

117  横川4兄弟


言わずと知らない人はいない、すかいらーくのオーナー、創業者。

ダイエーが飛ぶ鳥落とすいきおいであったが、もうその姿を見る影もない。すかいらーくをゼロから作り上げて、なんと、最後は追い出されるいう、横川氏

ぼくは尊敬するひとと言えば、茅野亮社長をあげるだろう、彼は、ぼくの父とおなじ昭和うまれ、社長伝説というのが1980年代後半までにはあった、いろんな話が店長たちから聞かされた、
一番、本部本社で働いているのは茅野社長である。と、
週刊誌に、ある千葉の店長がパート主婦と解雇問題で労働争議をおこし、週刊誌にだいだいと、載った、
そして、緊急会議が本部で行われ、
社長は一言、まず、
「何があっても店長を救え!」
その言葉に、僕ら社員は感動していた。
全国を分割し、事業部制にしたのも、スタッフを増やし、店長のつぎの職務をつくることも大事であると、言っておられた。
トップの気持ちが伝わるのである。100店200店300店とどんどん店が増えてゆく。
どんどん社員は増えていき、組織がでかくなる、400店500店となる。
どんどん、外部の人間のエキスパートがはいり、いろんなことを口出ししてゆく
そして、本部長同士の派閥も生じてくる。
社長が言った言葉がねじまがり、違う言葉でしたまで伝わることもあったろう。
昭和9(1934)年生まれ。長野県諏訪市出身。諏訪農業高校(現在の長野県富士見高校)を卒業後、27歳まで農業に従事。亮氏は、養子に出されて、27歳まで他の家の跡取りとして、農業をされてゆくのである。農閑期には、他の兄弟たちが東京でやっている店を手伝っていた。

茅野亮氏はすかいらーく創業者兄弟の次兄で、初代代表取締役社長を務めた。「すかいらーく」は長野県出身の4人の兄弟、
横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫が創立した。
1970年に府中市の甲州街道沿いですかいらーく国立店を開設した

ぼくは、今更ながら思うが、この4兄弟の絶妙なバランスがあったからこそ、会社はうまくいったのではないかとおもう、人間という者は、欠点もあり、いいところもある、それぞれが自分たちのいいところをのばし、わるいことろをカバーし、そして、すかいらーくはほとんど、徒手空拳で
ゼロから、金がないところから、一部上場の大企業になった。驚くべきことである。

社長曰く
「我々のように後ろがないと、先送りすると崖から落ちてしまいます。だから必死です。ひたすらお客さんに受け入れられる提案をし続けるだけなのです」
そして、ぼくは思う、そのいい部分を出しているうちはいいが、外部の人間の話や金融や証券やなどのものの知識がどうも劣っていたのではないかとも思う。
ガストは、紀夫氏が発明したのである。数々の新業態を作ってはつぶし、作ってはつぶししながら、ガストもそのひとつであったという。
思いつきは天才で、その商才は抜群である。しかし、ブームを作り、店を出し
増やしてもブームがおわるとだめになる。続かないのである。
そういう部分では着実な経営を別枠でやっていた竟氏、ほとんど赤もださず、
健全な経営をジョナサンという24時間の都市型スタイルでやっておられた。
いまもなお、新しい店を出しておられる、堅実な経営という能力は竟氏であるとぼくは推測する。
紀夫氏は、すかいらーくがダメになるまえに別会社を立ち上げ、そこではさまざまな素晴らしいお店や業態を作り上げ、なんと、一部上場までにしあげた。
驚くべき能力である、
しかしである、このコロナ騒動が起こるまえから、会社全体の減収減益となり、
いまは、ほとんど危険な状態であるという。
そんなとき、竟氏はぽんと、資金を紀夫氏に提供するのである。
もし、その会社がだめになれば、2回目の経営破綻になってしまう。
こんなことを底辺のぼくがいってもしかたないが、やはり、なんらかの隠れている問題があるとおもう。
ぼくが社員でいたころは、茅野社長しか、お話は聞くことはなかったが、
いま、この問題をおもうに、飲食は日銭で成り立っており、
そのゼニについては、困るときもあるわけで、
その昔、業績が悪化し、社員のボーナスがだせなくなったときがあり、
もう、今期はなしに、しようと言う意見が大半であったにもかかわらず。
自分の家を担保にいれて、銀行から金を借り、なんとか払ったという。
そういう積み重ねが、人間として社長として起業家として
茅野亮氏はみんなから愛されて尊敬されていたと思う。
ぼくは、ほんと、地方の先の先の防人のような店が多かった。
しかし、そういう店まで、茅野亮氏は、正月営業のときに来られるのである。
ものの五分もいないが、
「店長!どうだ、がんばってるか!」握手し、笑顔で話される。
あの手のぬくもり。みんなで、店をまわるという、地方の端ばかり
いつしか、それも無くなったな、と、
最後まで、ガスト転換には反対であった茅野亮氏、
しかし、転換をきめれば、全社員をわざわざ三鷹までよんで説明をした
何回も何回も何回も、
たしかに、90年代に入り、既存店の売り上げは落ちていた、なすすべも無く
ファミレス全体はゆっくりと減少してゆく。
「価値ある豊かさの創造」
という、コンセプトをあげた。いまもそれはあるが、いまはそれは嘘だ。
帝国ホテルのようなサービスで、調理で、あなたの町に安くておいしい
レストランを出す。ピザなんてたべたことのないひと、全国の津々浦々に
旋風を巻き起こしたのである。
ぼくが、辞めよぅと感じたのは、なぜか、その辺にもある。
すかいらーくは、金が無かったのである、
ないにも関わらず、店を出し続けていた。店はそのために利益をださないといけないし、計画どうりに50店出します、売り上げはこう、利益はこう、
と、株主に説明し、信用を得て、資金を得るのであった。
その金貸しの重要なポイントに富士銀行にいた千葉専務がいた。
かれは、常にぼくらにいっていたのは
「相対売り場面積を全国に獲得した者がこの業界の勝利者である」
だから、がんばれという。
このもくろみが間違えのひとつであった。
冒頭の茅野社長の言葉。
「後ろがない(バックがない)我々は問題を先送りしていては崖から落ちる」
崖から落ちるつもりでガスト転換を行い、成功したが
その後、ひどいめにあうのである。