すかいらーくの思い出 その2

今はなきすかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。
UPDATE 2012年2月9日 17:24:28

広島五日市を去るとき、
何人かの女の子が泣いてくれた、そういう涙を始めてみたので感動した。
神戸に彼女を残して広島から遠距離が続いていた。ラストをして2時過ぎまで働き
夜中に中国縦貫を飛ばして神戸に帰り、昼間デートして、夜中に再び広島に帰り
トップ(昼勤)をするということをやっていた、元気だった。走行距離は1000キロを超え
国泰寺の森安さんから「ええかげんにせいよ!」と怒られたのを思い出す。
四国は、栗林公園が24時間でばかうれをし、屋島店も好調で先行してオープンしていた、
ぼくはその後の坂出北丸亀観音寺のおーぷんのときに四国入りをした、
「なななんと、田舎か!」これには驚いた、吉野家もないし、コンビニもない。
当時はひたすら田んぼを畑の中、ラスト勤務が終わると、食べるところがなかった。
丸亀は採用ができず、なにしろ、オープンに18人しかそろわなかった、




瀬戸大橋のイルミネーションが点灯すると死ぬほどラッシュになった。


ランチの採用もできず、毎朝ランチスープを仕込み、休みがないのが続いていた。
半年ほどして、なんとか安定し、3人体制に移行できそうなときに事件がおきた。
母店の栗林のできるといわれたK社員が、失踪したのだ。行方不明になったのだ・・。
なんども、実はおきていた、社員が店にこなくなるんだ。たいてい、なんらかの圧力に負けるんだ。
いい加減なぼくは、そういうくそまじめな社員を見て「ファージィにやらなあかん」といきぬくことを読んできた。
「追い込んだらだめ」これは、秀吉の城攻めのコンセプト、どこか逃げ道をつくっておかないと
辞めてしまいます、広島五日市で苦労したことを教訓としていた。
そのできるとされていた社員は、要するに風鈴であった。急遽ぼくがその社員のかわりに栗林公園に
転属となり、社員がみんな店の女の子を彼女にしていたむごい裏惨状を見て唖然とした。
Oグランドマネジャーと折り合いも悪く、再びどつぼのなかにはいっていった、
丸亀の店は安定し、M店長はあいかわらず、楽をしていた、M店長は偉大なるひとであった・・。
7マイ伝票を編み出し、屋島のしんてんでは花火大会に5時間100名を連続して回転させ
オペレーションの神様といわれていた、が、仕事はあまりしないのだった。

店長になるにはかなりの年月が必要だった、社員層があついこと、新しい店を年間50だして、100人少し採用し
関西一期生は一年で店長になれたが、二期からが時間がかかり、ぼくらのときは5年から6年かかっていた。
それでも関東はもっと、遅かった。早くなりたい!とおもうのが常であったが、店長手当て5000円であったが
ひとつの目標であったのだ・・。任されるということだ。


つづく・・3号へ・・

個人的な話ですので・・。

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