佃 崩壊してゆくランチ  佃の話 10


今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。
UPDATE 2018/02/08 3:35
注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、
問題のあるかたはメールでおしらせください。osatani@osatani.com



一人また一人オープンメンバーが辞めていった。
店長が替わり社員が変わると起きる現象。これはどこでもある話、
店につくのか、人につくのか、たいてい、人についてしまう、懐いてしまう、
ぼくは、やはり、人につくのではなく、店に定着してほしいと思った。
自分がその店を異動したあと、その店の悪口を他の社員から聞くのが嫌だからし、
ある程度距離を置くべきでもある、バイトはバイトであり、社員のものではない。
絶対、異動したあとは、よほどの人手不足出ないかぎり、
前の店の人を引っ張ってはいけない。ぼくは、自分なりに鉄則とした。
しかしながら、要領よくやる社員は、掛け持ちをさせたり、本人の意思ということで
引っ張るのも相当いる、その方がトレーニングコストもかからず、
気心もしれているからである。しかし、トラブルは起きやすい。
バイト同志で、「なんだ、あいつは」となるのです、

佃から、港弁天町に異動した斉藤さんに
自分が休みの日に、勝手にただ働きでヘルプにいった。
昔世話になったからだ。
お盆の前の貴重な休みでした。やはり、森てんの店は活気があり
寺坂さんもフロアーでがんばっていた。適当にサボっていたが、
閉店作業も手伝い、ラストまでやって、
ふたりで三国まで飯を深夜食べに行った。
昔は、社員同士は仲良く、2時閉店のものは5時閉店の店へ
5時閉店のものは24の店に、社員割引で飯をくいにいく。

朝日が昇ってきて、ご飯を食べてると
「たいへんだよ、飛行機が落ちたって・・」
その日は、あの123便の墜落した翌日だった。
ぼくは帰りしな、空を見上げた、
丁度、大阪行きの伊丹空港への進路は、三国新大阪の上を
降下しながら飛行する。大変なことが起きたんだな、と思い、
世の中が大変なことが起きていても、店が忙しくて、新聞も読まなければ
何も知らない、

兵庫駅南店がオープンし、研修店舗にずっと、居残っていた中のさんが
異動した、ごうてんが、丸さんに大プッシュしたのだ、
代わりに来たのが同期の田上だった。
同期の田上は、準社員天国の佃、ごうてんを嘆き
なんども、ぼくにどうにかしないといけない、
家にまで電話してきて、躾のひどさを訴えてきた。
田上は長い間、豊中山の上で、アルバイトをしており、その後社員になった。
バイト上がりである。
当時、バイト上がりの新卒はすくなかった、あまり採用しないのである。
なぜかというと、裏の裏を知ってるので、きちんとしないことが多い、
作業は覚えているので、バイトの延長線上で意識が変えられず、
それに、本人は仕事をやる上で、どうしても2年3年やると、
面白ろみをみつけることができず、辞めてゆく。
同期の何人かも既にバイト上がりは退職していた。
しかし、逆に、バイト上がりでも、そういう、裏の経緯をしりつつも
余計にシビアな管理ができる人もいた。寺坂さんがそうであった。
田上は、ドンがめと、福西(こいつもバイト上がり)にいわれながらも
佃の意識の低さを嘆いていた。
僕らも若かったので、ぼくは23歳田上は21歳。
バイトの女の子たちが、特に高校生が、斉藤さんがいなくなり、
恋するひとがいないので、ぼくらにも、そういう女の子が現れた。
ぼくは、決して、バイトとはつきあわない、方針であった。
しかし、僕は甘いので、その子以外にも、
どっか、ドライブつれていけ、春休み、バイトばっかりでおもしろくない
車でどこか、連れていけ、と、ぼくに言い出すのであった。
バイトを辞められてはいけないので、そういうときも、どこかにいき
ご飯を食べにいったが、やはり、それを勘違いする女の子がいて
僕のことをすきになり、家まで電話してきたり、攻勢をかけてきていた。

やばいなあ、と思いつつ、辞められたら困るので、悩みの種であった。

そんなこんなしていると、1年半、佃に在籍していることになり、
どこかの噂で、僕が異動する話が出てきた、まあ、ごうてんの話であるが
ぼくは、心配になり、あちこちの人に電話して、異動がどこか調べた。
しかし、その話が、鬼の丸SVにばれて
こっぴどく、怒られた。
「昔、そういうことで辞めたやつがいるんだ」
ぼくは、なぜ怒られるか理解不能であったが、人事は引っ越しが伴わないときは
2週間程度で言い渡されていた、
「気持ちがとぶから」だそうだ、これも変な話、最後まできちんとするように指導すればいい
話で、そういえば、入社前のキャリアプランの話は完全に虚実であると言う事情がわかった。
批判はさておき、

「おまえは、家から近い、三宮店である」
そう、丸SVから直々に言い渡された、あれ、店長じゃないの?いうのは、とおもいつつ、
伊丹桜台では、バイトに先にいう店長もいたし、そういう部分のところが実に不可思議だった。
ごうてんは、三宮にもいたそうで、さんざん、いろんなことを僕に言い出した。

異動の日が来た、花束や贈り物が山のように僕に渡された。
その後、異動することは何回もあったが、佃店では恐ろしいくらいのプレゼントをもらい。
いま考えると、バイトパートのみんなが、惜しんでくれたということであろうとおもった。

しかし、次の店は、同期の井上さんがいて、店長は替わろうとしていた、
井上さん以外の社員、丸岡店長と、大橋さんが、朝霧に移動し、
ぼくと、その店長がゆくという、やばい人事であった。
その店長は高見店長といい、またしても大学の先輩で、新店北鈴蘭台店を立ち上げて
三宮に異動となったのです。
しかし、これまた、いわくつきの、大変な店であった。三宮でも様々なことがおこり、
佃1年半のあと、三宮でも1年半を過ごすこととなった。

佃の思い出はたくさんあり、その後のすかいらーく人生に深く影響を与えたものでした。
本当に大変な店でしたが、メンバーのみなさんを思い出したりすると、
懐かしものです、

佃、おわり

INDEX

佃店のオープンフロアーメンバーと、土曜日のランチ
にはいる、短大生の北山さん。なつかしい、ユニホーム

ぼくと、田中さん、懐かしいドラム

2018/02/15 4:51