三宮店 ランチの戦い



佃店を入社してからの秋から、1年半配属され異動になった。
実に寂しかった、あれほど大変な店であったが、
思い出深い店であった。
ごうてんは、異動したらもうこの店は忘れ、決して来ないように
遊びにきてはいけない、と、釘をさされた。
こういう重要なことはごうてんから教わった。
大切なことだった。なぜそうなのか、
いつまでも前の店に関わるな、新しいつぎ社員がいるからだ。

行く前に、三宮に電話すると、
大橋さんがいて、話した。
「ランチが欠員で大変です」
同期の井上と、同じ店で仕事をするのは、実に嫌だった。
珍しケースであった、
当時、10-2 (朝10から夜2)までの店がおおく、
三人体制というシフトがモデルだった。10人ほどいた社員が6人でできるようになり
5人、4人、そして、3人で、社員で運営する、
しかし、もっと、あとには、3人が2人になり、この2人を2Mといい、
これへのシフトが一番大変だった。そして、ガストになり、
ガストでは2Mから、店長ひとり運営になっていった。
どこまでも続くコスト削減、ワンエムといわれるシフトから
今度は、店を二つで店長一人とか、言い出す始末。
どこまでもコスト削減は続く会社であった。もう、そのあたりは別の項で述べますが、

3人体制は、店が落ち着けば、楽な店であった。
根本は、平日土曜日のランチタイムが、社員が一人で管理できて
ラスト深夜が、一人で管理、平日は昼シフト、ラストシフトが出勤し、
もう一人が休日、これで、2日は休める。日曜日は三人とも出勤する。
いま考えると、贅沢なものであった。

しかし、三宮店の三人体制は崩壊しつつあり、
ランチがフロアーキッチンもともに、欠員で
休みの社員が2時間でてきてしのいでるようだった。ビジネス街にも繁華街にもちかく
ランチは満席ウェイテイングがかかる忙しさ、

「覚悟してくるように」大橋さんはそういって、朝霧店に異動した。
店長も、変わったばかり、丸岡さんは朝霧の店長になり、朝霧にいた土居さんは岡山にとばされる。
もともと、土居さんが三宮にいて、そのあとを追うように丸岡さんは一年足らずで異動していって

ごうてんに聞いて
「三宮の高見さんは、どういうひとなんですか?」
「そうやな、もりてんとか、ごうてんとか、たかてん、とかいうあだ名はつかない、物静かな、
たとえば家で奥さんとワインでも飲むような物静かなひとだ、そうだ、おさの大学の先輩や、関西一期で
北鈴蘭台の新規店舗を作ったひとだ」

高見店長と面接をし、再びキッチン担当であった。
なんで、ランチが欠員か、そこが知りたかった、佃もずっと欠員がらみで
これも根本的には協調性のなさからきていたのであるが、要するに、人間関係であろうと
ぼくは、思っていた。ランチのひとは、主婦がメインで、大人の人が多く、
きちんとすれば、きちんとしてくれ、
そういうものだった。

バイトパートの既存のひとと挨拶してまわった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と、きちんと挨拶をかえしてくれたひとは少なかった。
なにしろ、ディナーの躾がひどかった。
社員の井上さんが甘いのであった。なーなーである部分が多かった。
自分の前いた佃も、そうだったが、あとから、そこに入り込み、
「それはだめだ、それじゃいけない」と、いうことの大変な戦いがはじまった。
自分としては、甘い佃のような関係にはならないようにするつもりだったが
余計に厳しくして嫌われる部分がおおかった。
大学ノートを用意し、この三宮店の悪いところを自分なりに書いていった。

その店にずっといると、だめなことも当たり前になり、問題点が見えなくなる。
その前に、それを記録しておく、50数カ所あった。
それらをグルーピングし、優先順位をつけて、自分自身の課題とした。
しかし、問題はたくさんあるものの、いいところもあったわけで
そこを認めるには時間がかかった。

ランチは相当問題だった。
店はランチ大変という前提のもとで、10時出勤であった。
1日目は井上さんとラインが被さり、売り上げ入金からやるべきことを
教えてもらった。いろいろとキッチンで説明を受けてると
「スタンバイを手伝え、これをしろ」とある女の人が言い出した
「ばっちゃん、いま、説明してるかできない・・」井上さんはこうかえした。
ぼくも見ればわかるのにスタンバイを手伝えとかいうひとを
初めてみた、

朝9時過ぎキッチンをみると、みんなで、買ってきたパンを焼いて
モーニングをしていた。珈琲をのんで、コーヒーは店のものだった。
朝スタンバイでおわれてるはずなのに、スタンバイせずに、くつろいでる。
恐るべき光景だった。
井上さんも日課でパンをもらい食べるのがこの店の始まりと、言っていた。
井上さんが来る前からの習慣で、彼は素直に、それがさも当たり前のようにいうのであった。
こういうことは、止めさせないといけない、
ぼくは、すぐに思った。

キッチンは、ばっちゃんといわれるひとと、村田さんと竹内さんの三名。フロアーは井坂さん、橋本さん
しかいず、社員はフロアーラインであった。
ランチの時間帯でスタンバイすべきものをナイトでさせていた、
とうじ、チキンカツは店でパン粉づけをしており、それをナイトでやらせていた。
これもおかしいとぼくは思った、ナイトはナイトで掃除とかやるべきものがあり
ランチはランチでやるべき、と、思い、これも提案して辞めさせた。

新人がキッチンにいて、ばっちゃんが教えていた。教えてるのを見てると、きつかった。
ぼろくそに言っていた、これは、辞める。僕は思った、案の定、次の日に辞めた。
数日して、ばっちゃんが体の調子が悪いといって、休んだ。
ナイトのフリーターが、聞こえよがしに話してるのが聞こえて、
「ばっちゃんが、パチンコ屋にいたわ、さぼって・・」

このひとは、いったいなんだ、と、ぼくは感じた。
ある朝店にゆくと、店の電話で、ばっちゃんが、丸岡店長の自宅に電話し、
さんざんぼくと高見店長の悪口をいい、仕事をボイコットしていた。
「私用電話は止めて、仕事に戻ってください」ぼくは注意したが、無視。
横にずっと、居て、ぼくは、電話の内容と相手がわかり、
これはもう、だめだなあ、と思った。

高見店長から最初に言われたのは
「もうどうしようもないひとがいたら、言ってください、使えないひとがいて辞めさせたい
ひとがいれば、言ってください」
そう、言っていた。ごうてんとはえらいちがいで、物静かに僕に言ってくれた。
ぼくを管理者として認めてくれると、いうことでしたが、
ばっちゃんは、頭にきたらしく、仕事を放棄し、その日からまた休んだ。

ぼくは高見さんに相談した。
「もう、辞めてもらったほうがいいんじゃないですか?」
ぼくは、そういった。
高見店長も頭を抱えながら、
「実は、ぼくもそう思ってるんだ・・」
数日して再び丸岡店長から僕に電話して
「ばっちゃんをどうするきなの?」と、クレームをつけてきた。
ぼくは、どうするもなにも、ずっと休んでますよ。
心のなかでは、ごうてんの言っていた。
「前の店のことには、一切関わるな」という原理原則を侵してるので、
一辺に丸岡さんが嫌いになった。
しかし、おそらくいま考えると、ナーナーになる情が移った丸岡さんの
家に電話を何回もかけていたのだろう・。
しかし、そのあと、丸岡さんはなぜか評価され、どんどん出世していった。

数日たち、けろりとした顔で
「明日からまた働けます」
と、ばっちゃんは店に来たが、高見店長は丁重に辞めてもらった。
慎重にかつ、言い方を考えて。
結果、ぼくが悪者に成り、店の中ではどっか冷たい視線を感じていた。
井上さんも同意し、ぼくが言うことに納得してくれた。

やはり、問題はそこにあったようで、新人も入り定着し、ランチは安定した。
それから、10年以上なり、キタラ店長が三宮に来て
「この店のランチが安定してるのは、いつからなの?」
と、控え室でベテランのひとびとに聞いたらしい。
「おさたにさんが、あのひとを辞めさせたときからですよ」
そう、言っていた、と、ぼくに言ってくれた。

しかしながら、自分の思いに100%正しい戸はあとでも思わないようになり、
ばっちゃんは、2階建ての店で、配送が大変で仕事がつらくても仕事を率先し
早く、てきぱきとし、よく働くよく動いてきた。そこは感心した。
それに、あとで聞くと、障害者の息子を抱え、大変であったということも、
よくよく考えると、そういう風にだれかがしたのかもしれない。
ずっと、前にいた社員がルールを壊し、ナーナーにした。
誰もが新人で入ってくるわけだから、わるいのはばっちゃんではなく、
そうさせた、前の社員がわるい、しかし、情が移ると言えない。
あの僕のタイミングでしかなかったのだ。
別にそんなこと、こだわる必要も無い、利益と客数だけとれればいいのだが
こき使えばすむのかもしれないが、

ぼくには、まだ、こだわりがあった。
こだわりをもたないで仕事をするな、といった、東店長の言葉を守ってきた。

次へ、三宮の戦いはまだまだ始まったばかり

2018/03/01