佃の思い出(番外編 清掃かんばんと大藪さん)
佃では、ごうてんがよく話を熱く語っていた。そういう部分ではコミニケーション力は
相当あった。まあ、単に話が好きだと言うだけだが・・。

「おさ、キッチンをきれいにせなあかんな・・」
ぼくは、キッチン清掃をどうやるべきか、どうあるべきかを
まず、入ったばかりに人間に教えるべきだと思うし
あるべき姿を見せるのがまず大事だと思うのだが、

またしても、おまえ、これをしろ、のまるなげ。

しかし、キッチンの「かんばん」(これは、また説明します)
定位置、解凍票、解凍かんばん、スタンバイかんばん、
消耗品一般品の発注かんばん
新メニュー関連、特別消費税。など、もち抱えパンクしていた。
しかし、もう、ぼくが営業でさえパンクしてるのに
それらを消化するには、休日に出てきてやるしかなかった。
365日あるとすれば、350日は店にきていたという感じであった。
まあ、いま思えば、やる気で燃えていたのだろうし、
だんたんと、学生時代の友人たちは、連絡もしてこないようになり、
学生時代からいたGFも、愛想を尽かして、去って行った。

いまでも、覚えている。
夏の暑い日で、17時から店に来て、ラスト朝5時まで働き、
翌日の朝に、西宮のGFの女の子の寮の前にゆき、
GFが田舎の宮崎の帰るために、神戸港のフェリー乗り場に
送ってゆく約束。
それが、朝の8時半。

もう、ぼくは体の疲労の限界を覚えて、
公衆電話から、仕事で無理、いけない、と、寮に電話した。
当時は、携帯電話なんか、ないので、
連絡は大変だった。

そのまま、ぼくらは、お互いに連絡もとりあわず、おわった。

ある人が言っていた、

入社して、学生時代のGFや友人たちとはうまくいかない、
休みも合わない、自分も疲れて・・。

ぼくは、やはりそうだったか、と、諦めた。

土曜日の、ラスト明け、5時閉店の店だと、
帰るのは遅いときは8時くらいにもなるときがある。


43号線の国道は広く、
日曜日の国道は、トラックも少なく、乗用車ばかり、
信号で止まった、ふと 周りの車を見た。
全部、カップルの人たちが楽しそうにドライブ。
ぼくは、おもわず、目を疑った。

ぼくは、おもわず、ハンドルをたたき。
「やって、やれないなあ!」
同世代は、ネクタイを締め、満員電車で、会社にゆき
休みの日は、新品のローンで買ったと思われる
スポーツカーで、可愛い彼女を乗せて、須磨の海岸を
目指してる。ぼくはといえばラスト明けで牛丼をくってかえるのみ

吉沢SVも、同じようなことを、伊丹桜台でぼくにいっていた。

仕事を優先し
プライベートを犠牲。
まあ、仕方ない、そういう自分を否定すべきでない。

話が大いにそれた、

丸SVは、ひまでも、ぼーっとしたり、整理整頓しない佃を
嘆いていた。
「おさたに、この店はだめだ、汚すぎる」
「そういわれても、」
ぼくは、どろどろのユニホームで答えた。

ぼくは、おもむろに
「きれいな店はあるのですか?」
「ああ、あるよ、住之江店、あそこはきれいだよ」

ぼくは、住之江公園店を休みの日に見に行った。
アイドルタイムに、社員証を見せて、わけを話
キッチンの中にはいった。

驚いた。
整理整頓清潔清掃、の素晴らしい店だった。
特にぼくが常に悩んでどうしようもない、佃のレンジフード、レンジフィルター

それらが、ぴかぴかであった。

ぴかぴかで、そのステンレスに、誰がいつやったか、
マジックサインをしていた。

これは、ナイトや社員を巻き込んで、店長も率先垂範でやってる。
と、感じた。
控え室にいき、ワースケを見た。そんなに厚くもなく、
店長の名前を見た。片山さんであった、伝説の片山さんである。
やはり、その片山さんはその後、どんどん出世していた。

余談ですが、モラルが超低下していて辞める寸前の神戸夢野店で
ぼくがたいへん嫌いであった部長がその片山さんを連れてきて巨大で(160席近く)
崩壊していた、作業の詰め切れてないというか、諦めていた僕の店の
フロアーを見に来ていた。まったく、片山さんも部長ともに
これまた、ややこしい女性社員(これも嫌いだった)と、話をし、
まったく、ぼくをスルーしてるのであった。フロアーがどうのこうのと

ぼくは、全く不思議な思いを常にこ女性社員にいだいていた。
いったい、店長と社員が話し合って問題を詰めてゆくべきなのに
その片山さんらと話している。
その女性社員はとてもパワフルでモラルもたかすぎながら、他の店長と
不倫関係にあり、のちに辞めたという。この話はもっと、あとのほうで・・。

10数年後の出来事だった。
片山さんは当時、本部でなんかしていたんだろう。
ぼくは、それはないよ、まあ、もう、辞めるしいいか、
と思った。
話がもっとそれるが
辞めようかどうか悩んでいたときも、
人事や本部のひとが、リストラに遭い、どんどん人が変わり、
当時は、太田部長(このひとはすばらしかった)が、人事の新しいひとを
連れてきていた。
ぼくは、相変わらず忙しい人の採用できない神戸夢野店で
フロアーキッチンと走り回っていた。
しかし、人事のひとも、スルー。まったく、ぼくを無視状態。
無視していたつもりはなかろうけれど

片山さんも人事のそいつも、
完全にスルーしてるな、そういう空気を読んだ。
あ、もう、いらない人材リストにアップされたのだと、思った。

話を戻して、
10数年前は、怒られて、怒鳴られても、SVや、いろんな社員は
ぼくに声をかけてくれた、
話をしてくれた。
がんばろうと、いう目標や夢があった。

「おさ、京都の西京極にいたんやろ?」
ごうてんが僕に聞いた。

「はい、プレ入社でいました」

「あそこの、大藪さんというひとが、清掃かんばん というシステムを考えて
店はぴかぴかなんだ・・」

「あ、大藪さんですか、とてもお世話になった人です」

「今度な、尼立のたかてんと、視察にいってくるわ・・」

ぼくは、あまりにも熱心なごうてんに驚いた、そして、また、ぼくに仕事を
振るんだろうなと、恐れた。

しかし、中野さんという先輩社員に振ることとなった。

ぼくも、大藪さんにあいに休みの日に、西京極までいった。
いると、大藪さんは困ったように
「視察の社員が山のように来て、仕事にならんのよ・・。ワースケもかけんし」

かんばんというのか、カードで、
当時、すかいらーくでは、目標を1兆円産業を目指し
TOYOTAのかんばん方式を食材の在庫発注に導入していた。

いま考えれば、すごくアナログであった。
すかいらーくも全体のやる気がみなぎる若い会社で
社長もすごかったが、本部もすごかった。

なんにしても、
「ゼロベースでシステムを構築しよう!」
のスローガンで、システムをどんどん入れ替えてゆく。

たまったものではないのは、現場です。

大藪さんは頭を抱えながら手短にシステムを説明してくれた。

どこを清掃するかが、項目にあり、
裏には清掃の手順、基準が手書きでかいてあり、
作業ポスト(箱で、その箱はフレッシュの箱を切ってつかっていた)
終了ポストがあり、おわれば、そこに入れる。
誰がやったか、いつやったかの、管理表があり
1週間立てば、作業ポストに戻す。

簡単名システムであるが、ぼくはさすが同志社のOBの大藪さんは
頭がいいと、思った。
このシステムは、5分でやれるもの、10分、もしくは、数分を
手空きの時間を利用するもので、素晴らしい物であった。
それに、誰がさぼって、誰が掃除してるか、一目瞭然。
それに、説明も作業カード見れば、新人もできる。

画期的なシステムであった。

ぼくは、店に帰ると、
再び驚いた、その担当社員は兵庫駅南の新規店舗に配属、
導入されないまま、汚い店であった。
清掃かんばん導入できる余裕すらもないまま・・

しかし、清掃かんばんの効果のすごさは本部に認められ。
カードは本部でつくり、カードポスト、管理表などの帳票は支給されるようになり
店での負担は減った。

それから、数年たち、新規店舗では導入は簡単で
特にフロアーはバイトパートの手空きがでるので、清掃かんばんは
有効だった。

栗林公園にいるころ、1988年頃か、
本部の役員くらすか、えらいさんが視察にきた。
またもや、ぼくはスルー。いま、おぼえば
ぼくは、ごますりができなかったのだ、決定的な間違えであったのだろうけど、
ぼくは、どんなにえらいひとでも、その店に来た人が挨拶するのが筋である。
という、信念をもっていた。

サービスエリアの清掃かんばんの入ったカードケースを見て一言。

「お客さんから見れるとこにこんな物、貼ったらだめだ。こんなカード亡くても
清掃できるだろう・・」
おっしゃるとうりですが、この役員のおっさんがだれだったか
覚えていませんが、その大藪さんが考案したものは、
いとも簡単に、廃止された。

本当に腹が立った。腹が立てば文句言うのが筋であるが、

そんな簡単に、清掃するか?店のこと全然わかってないくせに
組織というものが、どういうものか、
若い企業から動脈硬化寸前の会社に突き進むのは目前だった・

清掃かんばんはぼくにとっては、そういう思い出です。

何年かあと、神戸夢野で、埼玉のひとが、監査できた。
もう、どうせ合格するわけがないと、思っていた。
当然、不合格。
しかし、その監査人は珍しく、ぼくと、いろんなことを話してくれた。

店のこと、会社のこと

「きみを見てるとなあ、思い出すんだよ、もくもくとやってる姿。
おおやぶさんていう社員にそっくりなんだ!」

ぼくは、驚いて洗い場の作業を止め、
監査人に
「僕が最初に教えてもらったひとが、その大藪さんなんです!」
監査人は驚いて言葉も出なかったようだ。

それよりも僕のイメージの中で大藪さんが居て、
大藪さんのようになりたい。そう思って、プレ入社のときに思っていた自分が
そういうことをいわれるなんて、

時さかのぼって、
大藪さんは関西二期メンバーでなかなか、前が詰まって
店長になれなかった。大藪さんがその後、京都宝ヶ池の新規店舗の
店長に抜擢されたので、ぼくはわざわざ、四国から会いに行った。
キッチンをすこし手伝った。
「おお、ひさしぶりやな」
「人事通知を見ていて、店長になりよったなあ、と、想っていたんだ」
大藪さんは僕にそう言ってくれた。
人事通知、新店舗人事は、用紙で店に配布されていた
これは大事なことだったのだが、コスト削減でこれも本部が廃し、

ぼくは、監査人のひとを車で駅まで送るなか、
京都から、関東に異動したあとの大藪さんの話を聞いた。
家族子供が多く、家族で関東にゆき、GB(グランドマネージャー)になり、
頑張っていたと。

ぼくが、すかいらーくを辞めて、大藪さんと同期の人から聞いた。
「癌で亡くなった・・」
言葉もなかった。

大藪さん、ありがとう、心から伝えたい。

辞める最後全国店長会議、千葉であったのだが
ぼくは、ひとを探してうろうろしていると、
何度も何度も、大藪さんにであった、大藪さんも
誰かを探していた・。
「また、おまえかあ・・」
と、言うことばが最後だった。

この記事を大藪正孝さんに捧げます。

2018/02/22 9:13 UP
2018/11/16 加筆・修正
目次に戻る。