(旧)すかいらーくの思い出 本文へジャンプ

116 就活を思い出すわけです


もう、あのころはどんどん昔になってゆく、平成も終わり、昭和は歴史の仲に埋没してくだろうけど、学生のころを思い出す。

ファミレス、外食産業はまだまだなころ、ぼくらは就職先があまりなかった。

いまでこそ、就活は三年できまるとか言われていますが、僕らの頃はぎりぎりで四年の夏でほぼ決まるのでありました、内定式は10月一日に有りそこで、意志を確定するのでした。いま思い出しても、企業研究とかぜんぜんしていなかったし、適当にやっていたと思う。リクルートからどんどん分厚い情報誌が送られてきてそこの会社を見て

はがきを出す、資料請求というものです、しかし、まあ、名前の聞いたことがない会社ばかり、ぼくは、就職ジャーナルのなかにある、カラーの見開きの
Tシャツを野原に干した写真がめに入った。とても感じのいいさわやかな写真、
それにまず騙されたのである。
「関西の人事担当の野崎と申します、一度、OBの話を聞きいてください、」
ぼくは、そう言われて、いこうと、思った。
夏まえの京都西京極の店だった。
しかし、そこには、男前の和田さんという地区担当がいて、OBではなかった。
まず、そこでも騙されたのである、
しかし、和田さん、すがすがし人で、男前で頭が切れそう
日本大学の理学部で、オイルショックで就職が無く、将来性をかけて
すかいらーくにはいったとか、
いろいろ、じぶんの話をして、そして、終わった、
あとから下宿に電話があり、
「実は一次面接だったと」言われた、またしても先手必勝。してやられた。
ぼくは、あわてて、外食産業をかたっぱらから研究し、どんな会社があるか
調べた。どうやら、これからのびる会社であることがわかった。
和田さんは、その後、社長室担当となり、茅野亮社長の懐刀となった。
「ぜひ、2次試験を受けてください」とか言われた。
ぼくは、内心、やばいなあ、と思っていた。
実を言うと、外食産業はさらさら最初は興味も無く、はやりの広告代理店を
狙っていた。一番いきたかったのは、旭通信社。ここしかなかった。
しかし、東京だし、先輩もいない。レベルが高すぎて、内定は無理
それでも狙っていた。

みんな、騙されるのである。
どう騙されるか?
みんな、いろいろ希望がある、たとえば、建築をしたい、設計をしたい、
「できますよ、立地開発というところがあります」
経理とかシステムエンジニアをしたい
「できますよ、そういう部署にもいずれつける場合があります」
広告とかcm制作とかしたいです。
「できますよ、宣伝の部署もあります」

しかし、まず、店舗を経験してもらわないと・・。

しかしだ。みんな現場の店舗ですりこぎでつぶされるように
何年も何年も店舗で仕事をし、
本部にゆけるひとはよほど成績をあげて、ごまをすらないと
いけないのである。

そして、また、本部にいけた、現場を離れたひとの裏話を聞くと、
『本部なんか、来るところではないよ、来ない方がいいよ!』とか言い出す。
なんでかときくと
まず、手当が無くなる、深夜勤務もない、残業もない、店長手当もない。
本部に来るとまずはオーナーたちの顔色を見ながらやらないといけない。
本部長のごまをすらないといけない。
ミスをすると店に大きな迷惑をかける。

まったく、夢を打ち砕けるようなことを聞くわけだ。

なにしろ、あの80年代から90年にかけて
すかいらーくは、毎年50店は新店をだし、100人以上の新卒を集めないといけない、
どんな手を使っても兵隊を集めないと人事部長は営業本部に怒られるわけだ。

で、兵隊は店ではバイトにもまれ、パートに怒られ、辞めるのも多数。
こんなはずじゃなかったと、
大学出て、みんな、がんばってるのに、自分は夜中にバイトみたいな仕事をしてる。

気がつくのと、それでもいいと思う人、
仕事の面白みをわかるひと、いい上司、面倒見のいいひとにであえたひと
そういうのは残る。

ぼくも、入って2、3年は辞めたい辞めたいと思っていた。
仕事も教えずに、怒ってばかりいた店長には辟易したものだ。
80年代はまだスパルタの時代で、パワハラなんてのは言葉もなかった。

だから、思い出した、ob面接なんてのは出来ないんだ。
ろくなこと、いわれない、誰も内定者を出せなくなるのだ。

若い人たちをある意味、だましだましつかうのが外食産業。
その犠牲でなりたってるのだ。

この項終わり。



   
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