伝説の男 もりてんの話。(番外編)

関西一期メンバーは、特徴的な人が多かった。関東で成功をおさめつつあった、すかいらーくのオーナー横川四兄弟は、関西をターゲットにし、九州から攻めていた、ロイヤルホストとの対決が関西で行われていたのだ。関西ではロイヤルホストは当時、大阪ガスとの合弁会社でOGロイヤルという別会社を作っていた。
大阪ガスは、地の利を生かし、立地戦略は必ず成功を収めていた。

様々な記憶、ぼくは、あのときを思い出している。
30数年前の話だ。よくもまあ、憶えていることだと思うが、自分で言うのもなんだが忘れつつもある。
そして、ぼくが辞めたのが1998年12月。
もう既に、20年の歳月を経ています。しかしながら、あの呪縛からのがれることができないのか、未だに、夢に出てくる始末。
昨日の夢は、いつもの、異動の夢だった、苦情の夢や、店が回らなくなったたゆめや、見るわけです、うんざりするのです。
もう、見たくないんです。
記憶の整理が夢というひともいます。
しかし、未だに整理できてないのか、

呪縛に囚われているのか・・。

三宮のいろいろな思い出があったのですが
思い出すと息が詰まりそうになるので、
すこし、今夜は、別の記憶を起こしたい。

関西一期の森安吾郎。
ぼくらは、「もりてん」と呼んでいたが、本人はもりてんと
呼ばれることを嫌悪しており、森安店長の前では決して言わなかった。陰でいっていたのだ。
彼は、たしか、名古屋の法の大学で、柔道家でもあった。
営業が強いのであった。
三国で、急遽、阪野さん(関西二期、ぼくと井上のトレーナ)
とで、たいへんな状況で営業をし、
その後、ごうてんが潰した、越水にた手直しを1984年に異動。
ぼくは、そのときにヘルプでその店で、もりてんに出会った。
「おう、おまえがおさたにか、よろしくなあ」
と、もりてんは笑いながらぼくにいった。
越水は人が居なく、三人体制が崩壊し、社員が6人もいた。
もりてんは、当時売り出しの非常に高価な、TOYOTAのソアラ初代にのっており、阪野さんもローンで乗っていた。

もりてんは、ジョークが多く、笑っていることがおおいが、決して周りは緊張を解いていない、突然怒り出すことも多々あり。
怒るときは何でも重なると。
「もう、おまえ、泣けや!あほがー」
とも、言っていた。
しかし、唯一。恐れていたのが、丸SVであった
もちろん、ぼくもそうだが・・。

ぼくは、なぜか、よく声をかけてもらった記憶がある。
だから、ぼくは、成るべく、自分が店長以後は、いろんな社員に声をかえるようにしていた

一度、佃に出社してる道すがら、後ろから大型バイクが追尾され
後ろから車をどんどん叩くひとがいた。
これはやばい、と逃げ、逃げまくると
ついに
「おれだ!おれだよ!」
とヘルメットを脱いで現れたのが

もりてんだった。

こういう、いたずらが好きな人であった。

越水から抜擢人事で、大阪に関西5年ぶりの出店の
店長となり、副店長は、持て男、斉藤あつしさん、
もりてんは、あっちゃんあっちゃん、と、言っていた。
その店は当初から140万をうり、すごい売り上げを記録していた。
驚くべきことは、もりてんは、朝4時に店にいき、
スタンバイをしまくっていた。体を張っていた。
プロモーターは、福田さん、このひとも関西一期であるが
当時、京都の地区担当になり、和田さんが社長室に引き抜かれ
その後、地区担当から、西宮の母店制度、研修をするための店の
ためのグランドマネジャーになり。
その店で、現金盗難事件(あの同期の藤田が辞めたナフキン事件の悪党が容疑の)で責任を取り、港弁天のプロモーターになっていた。
まあ、降りても、再び、要職につかれるんですが・・。

とにかく、もりてんの営業はすごく、
体力があり、声がでかかった、
ひたすら、キッチンであった。

それから、もりてんは、不思議な異動を繰り返す。
今度は、福田さんの後釜の渡辺さんが急遽SSCという
ところに異動。すかいらーくシステムチェンジという部署。
なので、西宮のグランドマネジャーとして、もりてんは
異動。
ぼくは、
「もう、異動なんですか?」
と聞くと。
「いやいや、またまた、これから異動なんだよー
また、新店なんだよー。もう、しんどいからいやなんだよー
なんで、おればっかりなんだ!しかも、広島だぞお!」

言葉どうり、すかいらーくが、地方都市広島に進出するために
その1号店、国泰寺に異動された。国泰寺は広島の真ん中で
売れに売れたが売れすぎて、パートアルバイトがついてこず
万年欠員店舗でもあった。

しかし、ぼくのその二期目の新店にいかされることと成り、
広島では何でもその調子で怒られたり、励まされたりした。

もりてんは、疲れ切っていたのか、
やがて、やっと、SV(スーパーバイザー)になった。
もりてんが成った頃には、ぼくは四国にいた。
新店でがんばっていたが、
「もりてんが辞めるそうだ・・・」
その噂を聞いた。

ぼくのいた新店の丸亀にもヘルプで入ってくれたが
その後、ぼくが栗林に移動したとき、
わざわざ、会いに来てくれた。

お別れの言葉も、きちんとされて
「辞めることにしました、いろいろとありがとうございました」
と、僕みたいな後輩に挨拶してくれた。・

本当に、寂しかった。
広島や、越水、弁天のことを思い出していた。

もりてんは、実家が、会社を経営されていて、そちらに
入るということであった、いろいろ、部長に文句があったらしく
うわさで、批判してぼろくそにいってる、
と、聞いたが、
僕と同じで組織に合わないひとであったのだ。
もりてんは、越水の女の子と結婚し
その後は、どうされてるか、わからない・

一度、大阪江坂の東急ハンズでエレベーターにのるところを
見かけた。1993年頃だったか・・。

もりてんも、尊敬する店長の一人で影響を受けた。



今はなき(旧)すかいらーく、その会社にぼくは費やした時間と情熱を思い出させずにいられない。

注意、このページはすかいらーく本部さま、会社さまとなんら関係のあるものではありません、
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2018/03/15 2:16UP